「テロの水際対策」を名目に、日本に入国する外国人に指紋などの生体情報提供を一律に義務付ける出入国管理・難民認定法「改正」案を、自民、公明両党が17日参議院で成立させた。この法案からは、在日同胞特別永住者は除外されているが、一般永住者やその他の在留資格者は適用対象となっている。在日同胞60万人の20%以上と韓国などの親族が適用対象となるということだ。
法案は(1)外国人(十六歳未満と戦前から在住する特別永住者は除く)が入国、再入国するさい、指紋や顔写真の情報提供を義務付ける(2)収集した情報をデータベース化し保管する(3)法相が「テロリスト」と認定した者の国外退去を可能にするというのが主な柱である。
日本では公権力が指紋をとることができるのは、裁判所が令状を出すか、身体拘束を受けている被疑者にだけである。年間に入国する外国人は約七百万人に達している。そのほとんどすべてに犯罪被疑者と同じような義務を強制的に課そうというのだ。これは日本国憲法が保障するプライバシー権・自己情報コントロール権を侵し、国際自由権規約七条が定める「品位を傷つける取り扱いの禁止」にも反する。
かつて日本には、外国人登録法による指紋押捺(おうなつ)制度があった。しかし、在日同胞をはじめとした在日外国人や人権団体の長いたたかいで2000年に完全に廃止されている。このたたかいの過程で、最高裁も「国家機関が正当な理由もなく指紋の押捺を強制することは、同(憲法一三)条の趣旨に反して許されず、また、右の自由の保障は我が国に在留する外国人にも等しく及ぶ」という明確な判断を示している。
米国の同時多発テロ(2001年9月)が起きた当時、東京入国管理局長だった水上洋一郎氏は、テロ対策の大切さを痛感しながらも、今回の改正法案には懐疑的だ。「日本はテロリストの指紋情報はあまり持っていない。政府が今度管理することになる指紋は一般の捜査に流用するとしか思えない」と指摘(法務省は、改正法案にもとづいて入手する指紋は、捜査上の照会があれば警察に提供すると明言している)し「その是非を正面から論議せず、法案を通してよいのか」と問題を提起した。
40代半ばで外国人登録の担当者となり指紋押捺に関わったが、これが人権上問題があるとわかっていたため、指紋は犯罪捜査に使わないことが大原則(朝日新聞2006年5月15日夕刊)となっていたからだ。
テロは許されない犯罪であり未然防止対策が必要なのはいうまでもない。100歩譲ってテロ防止のためこの法案の根本的問題点に目をつぶるとしてもなお多くの問題が残る。
その第一は、テロの水際対策を外国人とだけ結び付けている点だ。
日本では、オウム真理教による日本人のテロは起こっているが、まだ外国人によるテロは起こっていない。また外国人テロ組織と日本人もしくは外国人特別永住権者が結びついていないとの保証はどこにもない。にもかかわらず外国人のチェックだけを強化しようとするこの法案は、日本人と外国人の共生に悪影響を与えることとなる。
水上洋一郎氏は「外国との共生を目指すべき日本にとって指紋採取は国益に反する」と述べている。
日本弁護士連合会も「外国人のプライバシー権を侵害し、偏見を助長する」として反対を表明。アムネスティ・インターナショナル日本などの人権団体も「『テロリストは外国人』という先入観に基づく差別だ」と批判している。
問題の第二は、採取した指紋、顔写真を1万4000件の国際指名手配情報、過去の強制退去者70万人分の資料と照合するというのだが、照合の精度が低く、約1割で誤認が起こることが日本政府の実証実験でも実証されていることだ。誤認による新たな人権侵害も心配される。
問題の第三は、警察をはじめ政府官庁からの個人情報の流出が相次ぐ中で、完璧なセキュリティがなされているかということだ。もしもこの情報が流失した場合の人権侵害に対して日本政府はいかなる責任を負うのだろうか。
こうした問題点の一つ一つが十分に審議されないまま成立した今回の「改正」入管法法には引き続き注意が必要だ。特別永住者が除外されているといって安心している場合ではない。われわれ在日同胞には韓国やニューカマーの中にも、また世界各国にも家族や親族がいることを忘れてはならない。
資料
闘論:指紋採取の入管法改正 坂中英徳氏/伊藤誠一氏
毎日新聞 2006年5月1日 東京朝刊
入国する16歳以上の外国人に指紋情報の提供を義務付ける出入国管理・難民認定法改正案は9日から参院で実質審議が始まる。指紋採取を免除される在日韓国・朝鮮人らの特別永住者を除き、対象者は年間700万人に及ぶ。テロや犯罪を防止する効果や人権上の問題点などについて聞いた。【構成・森本英彦】
◇善良な人の入国促す 外国人観、好転させる−−外国人政策研究所長・坂中英徳氏
法務省には日本から強制退去させられた約80万人分の指紋情報がある。国際刑事警察機構(ICPO)や諸外国の捜査当局が保有するテロリストの指紋情報の共有も進んでいる。入国審査時に外国人の指紋を採取し、これらのブラックリストと照合すれば、テロリストや重要犯罪者の入国を水際で阻止できる。「日本の入国審査は極めて厳格」というメッセージが世界に発信され、要注意人物が日本に来なくなる抑止効果も期待される。
日本はテロと無縁の国ではない。アフガニスタンやイラクで米国の同盟国として協力し、国際テロ組織アルカイダから攻撃対象として名指しされている。いつテロが起きてもおかしくなく、実際にアルカイダ幹部のフランス人が他人名義の旅券で03年までたびたび来日していたことが分かっている。当時ICPOの指紋情報が提供されており、指紋を採取できていれば入国を阻止できた。
強制退去させられても他人になりすまして再入国する「リピーター」も防止できるようになる。05年の統計では、強制退去者約5万7100人のうち約13%が以前にも強制退去させられていたことが判明している。この中には日本で罪を犯した人もいるわけで、指紋の採取は国内の治安対策としても有効だ。
今回の法改正は、国民の生命、財産、安全を守るためにやむを得ない。かつての指紋押なつ制度とは異なり、両手人さし指の指紋を電磁的に読み取る方式で不快感も少ない。外国人の品位を傷つけるという批判は当たらない。
人口減少時代を迎え、これからは優秀な外国人を受け入れて、日本人と外国人が共生する社会を目指すことになるだろう。しかし、一たびテロが起きれば、国民の外国人感情は決定的に悪化し、「外国人の受け入れなどとんでもない」ということになってしまう。
逆説的だが、開かれた国をつくるには入国管理を厳格にしなければならない。テロリストや犯罪者の入国を阻止する一方で、日本に入った善良な外国人は優遇し、温かく迎えることが必要だ。そうすることで、外国人は「日本は安全で安心して生活できる国」というイメージを持ち、日本人の外国人観も好転し、多民族共生社会への道が開かれる。
◇人権を侵害、反発招く 偏見生み共生妨げる−−日本弁護士連合会副会長・伊藤誠一氏
指紋などの生体情報は他人にみだりに開示したくないもので、外国人が入国する際に指紋の提供を義務付けることは重大なプライバシー侵害だ。日本が批准する自由権規約が禁止する「品位を傷付ける取り扱い」にも当たり、国際基準から外れている。同様の制度は米国しか導入しておらず、日本が指紋採取に踏み切れば、諸外国から大きな反発を招くだろう。
日本では、刑事手続きで身柄を拘束した時や、裁判所の令状によらない限り、本人の意思に反して指紋を採取できない。外国人登録法の指紋押なつ制度は、批判を受けて廃止された。今回の立法は「テロの未然防止が目的」で、指紋押なつ制度の時と状況は異なるが、本人の意思に関係なく指紋を採取する人権侵害性は変わらない。
テロの防止が目的ならば、何の問題もなく入国した外国人の生体情報はすぐに消去すべきで、保管の必要はない。しかし、政府は情報を蓄積してデータベース化し、犯罪捜査などに利用するという。犯罪の嫌疑もない外国人を政府の管理・監視の下に置くことは監視社会化を招き、自分の情報を自らコントロールする権利を侵害することにもなる。
法相が「テロリスト」と認定した者の国外退去を可能にする規定も問題だ。テロリストの概念や規定は国際的に定まっておらず、圧政に抵抗する人が、その国の政府からテロリスト扱いされる場合もある。恣意(しい)的な解釈を防ぐために規定を厳格にし、十分な告知・聴聞の機会を与えるなど適正手続きを保障すべきだ。
テロ防止は、権利をより侵害しない方法や知恵で達成できる。旅券の顔画像との照合や旅券偽造の調査を慎重に行えば、指紋情報を取得しなくても適正な入国管理ができる。外国人をいたずらに特別視、危険視するのではなく、共に生きることを受け入れ、人権基準を守りながら国際的に協調することがテロの予防につながるはずだ。
国内の多くの外国人は「犯罪者ではないか」という色眼鏡で見られるべき人たちではない。指紋情報の提供を義務付けて保管することは、外国人が犯罪の温床であるかのような偏見を生んで共生を妨げ、かえって社会を不安定なものにしかねない。
■人物略歴
◇さかなか・ひでのり
慶大院修了。元東京入国管理局長。法務省退職後、脱北帰国者支援機構を設立。60歳。
■人物略歴
◇いとう・せいいち
北大卒。札幌弁護士会所属。日本弁護士連合会副会長として人権擁護などを担当。56歳。 |