北朝鮮の核兵器計画に反対する運動は、在日同胞の人権を主体的に守り、北朝鮮人民の困窮を救おうとするものです。
しかし在日社会の一部では、北朝鮮が核実験を行った後でさえ「北も悪いがアメリカも悪い」、という主張をする人たちがいます。この言説には、原形があります。それはかつては、「北は正しいがアメリカは悪い」という形のものでした。「北は正しい」と言えなくなった時点で、北の矛盾を不問に付したまま、「アメリカの敵視政策」を問題にするようになったのです。この言説の流れは、論理としても人脈としてもひとつの系譜をなすもので、北朝鮮非難を避けたい人たちの詐欺的な詭弁論理から来ています。
この論理の最大の特徴は、北の政策や行動をあくまで既成事実としておしつけることにあります。「北は悪い」と認めながら、北のどこがどのように「悪い」のかを語らず、したがって、北がどうあるべきであり、また今どうすべきかについて全く提言しないことにあります。
いまひとつ、この言説の特徴は、「アメリカは弱い者いじめをしている」という形で反米的民族的情緒をよりどころにしていることにあります。本当の民族主義であれば、その結論はただ一つであるはずです。統一総選挙の形であれ、段階的な形であれ、平和的に民主主義的に国土の再統一にまい進することであります。
それを敢えて進めないこの種の言説は、過去に自分たちが犯した理念的な誤りを率直に認めようとせず、自己の主張を正当化するものであり、不誠実で、偽善的です。
「北朝鮮も悪いがアメリカも悪い」というこの言説は、北の現実とアメリカの政策との間に、一方的な因果関係を求めています。「北はアメリカの世界政策の犠牲者だ」というわけです。しかし。1950年の朝鮮戦争から現在まで、半世紀の歴史はそうした立論を否定しています。
近い例でも、第一次核危機のあと、94年に包括的協定が結ばれたにもかかわらず、北当局はひそかに核兵器計画を続行していました。そして96年ごろから「先軍政治(軍事優先)」を国家政策として打ち出しました。朝鮮総連の綱領からも「核兵器反対」が消えました。
第二次核危機の過程でも、「平和利用の権利」を云々しながら、結局は核実験を強行し、「核兵器保有国としての待遇」をうんぬんしています。ウソで固められた行動です。拉致、麻薬、ドル偽造、ミサイルの問題は言うまでもありません。
北朝鮮の現実とアメリカの政策との因果関係は、逆なのです。かつては、朝鮮戦争を引き起こすことで日本の再武装を実現させ、今また、ミサイルと核で北朝鮮当局は日本社会の右傾化を促進して、私たちの立場を不安なものにしています。
一部の言説はまた、「核の不平等」を問題にします。「アメリカが核兵器を持っているのに、北が核を持ってなぜ悪い」というわけです。現在の核兵器管理体系が不十分なことは事実です。しかし、北の核兵器が「主権的権利」であるとすれば、日本も韓国も同様の権利を持つことになります。恐るべき核ドミノ現象が起こります。核管理の問題は単なる国家主権の問題ではありません。いま推進されている地域統合のさらなる進展によって、世界の構造を変えながら改善すべき問題なのです。人類全体が、互いに力を合わせて自己管理能力を高めていかねばならないのです。「核の不平等」説は、不真面目な独善に過ぎません。
「北朝鮮も悪いがアメリカも悪い」とする一部の言説は、こうした事実をおおい隠し、事態をさらに悪化させるものだといえます。
最近の国連資料によれば、北の子供たちの身長は、同年齢の韓国の子供たちより10センチも低くなっているとのことです。北朝鮮の人民と韓国国民、なにより在日同胞のために、断固たる批判と抗議が必要です。北当局の現在の軍国主義的進路を、どうしても変えさせなければなりません。
そのためには、「北も悪いがアメリカも悪い」といった無責任な言説は、排除されねばなりません。いまはただ、北朝鮮の核兵器開発に断固たる批判あるのみと考えます。
北朝鮮の核兵器計画の全面廃棄を求める運動は、在日の生活と人権を守る運動です。北当局の暴挙のために、在日同胞にたいする、なかんずく子供たちにたいする社会的な風当たりが強まっています。
北朝鮮の核兵器計画の破棄を求める行動はまた、日本において共生社会の実現を求めるものとして、日本社会にたいする義務的な行動でもあります。北朝鮮の核兵器は日本の平和にとって、明らかな脅威です。私たちは、みずからの背理に目をつぶって他人に共に生きることを求めることはできないはずです。
不断に差別と戦ってきた私たちの努力は、韓国の経済発展とあいまって、日本国民の尊敬をある程度勝ち取ることに成功しました。しかし、朝鮮半島の平和を実現してこそ、私たちは真に尊敬されるべき民族の末裔となることができます。その時、私たちはすべての苦痛から解放され、自由になるのです。
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