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安企部のブランチとして追い詰めた北朝鮮に憤慨 …
文益換牧師死亡の一因

河テギョン
【紹介記事】2011.9.26

 文牧師を補佐していた「開かれた北韓放送」代表の河テギョン代表は、「文益換牧師は北朝鮮から見捨てられた」との内容を韓国の中央サンデー(2011年9月 18日号)とのインタビューで明らかにした。以下ではその内容を翻訳して紹介する。この内容からは、いかなる親北人士でも自分たちの路線から少しでも逸脱すると「スパイ」の汚名を着せ排除にかかる北朝鮮政権の本質が伺える。

 【紹介記事本文】
 韓国内の主体思想派は北朝鮮の指令によって文牧師を安全企画部のブランチ(偽装活動家)に仕立て上げた。文牧師の突然の死はこれによる憤怒が一因である。
 1989年北朝鮮に密入国して金日成主席に会った文益換牧師の死因に対する新しい証言が出た。94年1月、文牧師が死ぬまでの7ヶ月間、すぐそばで仕えて一緒に働いた河テギョン 「開かれた北韓放送」代表による証言だ。河代表は 16日、中央SUNDAYとのインタビューで“親北朝鮮人士として知られた文牧師が1990年代初頭には北朝鮮の対南戦略に反する独自路線を歩んでいた”とし “これにより北朝鮮は文牧師を運動圏の中心からとり除こうとする工作をくり広げた”と語った。
 河代表はインタビューで、最近脱稿した回顧録「民主主義には国境がない」では載せることができなかった文牧師の晩年活動と対北認識、文牧師を排除するための北朝鮮の指令とこれと関連した運動圏内部の葛藤と暗闘に対して詳細に証言した。80〜90年代親北朝鮮学生運動圏核心で活動して二度拘束収監された河代表は、現在北朝鮮民主化活動家として活動中だ。

―文牧師のそばで仕事をするようになった経緯は

 “全国大学生代表者協議会(全大協) 活動をして収監されたが 93年 2月金泳三大統領就任とともに成立した特別赦免で釈放された。3,4ヶ月休んで健康を回復した後 、6月頃から ‘統一迎え’という団体に入って行って常勤者として働いた。‘統一迎え’は文牧師が統一問題と関連したシンクタンクとして育てるために作った団体だった。事務室はソウル鐘路5街にあって文牧師と私以外に4〜5人の常勤者がいた。林秀卿さんやイム・ジョンソク前議員なども随時事務室に尋ねて来て仕事を手伝った。文牧師とほとんど毎日のように事務室で共に過ごして多くの対話を交わした”

―当時文牧師はどのような活動をしていたか

 “文牧師は当時、全国統一汎民族連合(汎民連) 南側本部議長を引き受けていたが、汎民連を解体して新しい統一運動組職を作るための活動をしていた。文牧師が汎民連を解体しようと思った理由は、組織誕生時から多くの限界がある組職だったからだ。90年創立された汎民連は南側本部と北側本部、海外本部で構成されていたが、海外本部というのは体裁だけの組織であって、実際は北朝鮮の指令をそのまま執行する北朝鮮政権の下部機構と同じであった。こんな状態では 1対 2の構図になるから常に北朝鮮に引きずられていくしかないというのが文牧師の判断だった。また汎民連は実定法(国家保安法)に抵触する団体なので大衆性が脆弱だった。それでこれを解体して独自の統一組職を作ろうとしたのだ。それがまさに文牧師が在野・市民団体を糾合して作った民族会議だ”

―文牧師の独自路線に対する運動圏の呼応はどうだったか

 “当時文牧師は運動圏の精神的師匠として仰ぎ見られていた。インドのガンジーのようだったというか、文牧師の権威はすごかった。このために学生運動圏の大部分と在野団体が初めは文牧師の路線を支持した。ところがそれが一瞬に変わるようになる。北朝鮮から送られてきたファックス一枚のためだ”

―ファックスの内容はどのようなものだったのか。またその経路は

 “私もそうだったが、当時運動圏諸組職は何らかの形で北朝鮮とコミュニケーションチャンネルをもっていた。主に第3国を通じてファックスを取り交わす方式だった。当時民族自主平和統一中央会議(民自統)という組職があったが問題のファックスはそこへ送られてきた。民自統事務室は ‘統一迎え’ 事務室の近くにあり、60年 4・19時の革新係人士と出所長期囚たちが出入りしていた。ファックス差出人は汎民連北側本部白インジュン議長であり、当時ヨーロッパにあった汎民連海外本部イム・インシク事務総長が中継したものだった。私が民自統事務室で直接ファックスを見たが ‘文益換は安全企画部のブランチ’と書かれていた。内容は ‘文牧師が安全企画部の指示を受けて汎民連を解体しようと策動をくり広げているが、これを拒否して汎民連を守らなければならない’との要旨だった”

―その後運動圏の雰囲気はどのように変わったか

 “私はこのファックスを公開してはいけないと主張したが、民自統が全国の主要運動圏組職と学生会などに伝播させた。当時運動圏は主体思想派が掌握していたが、彼らにとってこのファックスは今後の運動指針となる教示と同じだった。地下組職は一糸乱れることなくこの指示に従った。それまで文牧師路線を支持していた運動圏の諸組織が一瞬のうちにうって変わり文牧師を批判し始めた。在野団体会議が開かれると文牧師を糾弾する雰囲気に一変した。文牧師がお亡くなりになった日にもそのような糾弾の集まりが開かれることになっていた。すでに亡くなられた方なので名前を公開することは避けるが、文牧師面前で ‘あなたは安全企画部のブランチなんだって’と虚脱感をにじませて語りかけた運動圏元老もいた。これをきっかけに運動圏内部ではいわゆる ‘汎民連解体論争’が起った。結局多数勢力である主体思想派の主張どおり汎民連は引き続き維持された。しかしこの論争によって運動圏の分裂が触発された”

―文牧師はどのような反応を見せたのか

 “精神的にものすごいストレスを受けた。ある日部屋から出てこられて‘やあ、お前たち、私が安全企画部のブランチだそうだ’とおっしゃってむなしい表情で苦笑をした姿が今も目に浮ぶ。普段腹を立てない方だったが、亡くなられる前までずっと激昂された状態でおられた。文牧師が急にお亡くなりになったのもあの時にもたらされた憤激のせいだ。結局従北勢力は文牧師を死に追いやったのだ”

―文牧師の死因は心筋こうそくだったが

 “高齢ではあったがお亡くなりになる日まで元気にしておられた。職員たちと夕食を共にする時は晩酌もされた。その日も朝に正常出勤した後、家に帰られて急に倒れたのだ。医学的な見地からは憤怒が直接の死因ではないかも知れないが、そばで見守ってきた私の判断では怒りでなくなられたのは間違いない”

―このことを今公開する理由は何か

 “私はそのファックスを見ながら北朝鮮の実体とこれを盲目的に追従する従北勢力の行動様式に対してもう一度考えるようになった。一時は英雄視して担いだ文牧師をあのようなやり方で追いつめるのを見て、北朝鮮は人間に対する基本的礼儀もない集団だと思った。私がそうだったように、いまだに北朝鮮に対する幻想から抜け出せていない従北勢力も北朝鮮の実体を正確に分からなければならないという考えだ”

―そばで見た文牧師はどんな方か

 “私は今も文牧師を尊敬する。勇気ある人で若者達よりもっと考えが柔軟だった。国際情勢にも通じていたし外国人とは英語で討論していた。一般には親北朝鮮人士として知られているが、実際はそうではなかった。汎民連を解体しようと思った事実がそれを物語っているいる。チャン・ジュンハ先生のような民族主義者だったから統一運動に邁進したのだ。89年に訪北したことも北朝鮮の工作によるものではなく、新しい統一の道を切り開くため自分の判断で決行したのだ.”

―自分の訪北経験に対しては若者達にどんなに話したか

 “今考えて見れば話にもならないが、その頃には北朝鮮に対する幻想があった。疏外され抑圧される人がなく、リーダーと大衆が一体となった社会であり、経済的にも私たちと同等な水準であると思った。そんな中で文牧師が平壌に行って来たので多くの人が北朝鮮がどのような社会かを問うた。文牧師の返事はいつも同じだった。‘北朝鮮は私たちよりも食べられず生活水準が低い。住民たちが金日成主席を尊敬するようではあったが、主体思想派たちが思うような理想的な社会ではなかった’と言うのがあの方の持論だった”

―金日成主席との出会いに対しては

 “文牧師が、金日成に直接トンジン号拉致者たちを南に返してくださいと要求したところ ‘そうしよう’との約束をもらったと言った。後に北朝鮮が一家族の脱北者である金マンチョルとの交換条件を持ち出してきたので実現しなかったいう話を他の人から聞いた。当時金泳三政権が登場して文牧師と親しいハン・ワンサン・ソウル大教授が統一部長官となった。あの時、政府特使の資格で文牧師が再訪北する案が論議されたと記憶している。なにがともあれ文牧師は金日成に対して対話が可能な人と思ったようだ。
 文牧師は、自分をブランチだして追い詰めたファックスは、白インジュンの名義となっていたが、実際は金日成の指示で送ってきたのだと判断した。このために文牧師の受けた衝撃は計り知れないほど大きかった。自分は処罰まで甘受しながら金日成を尋ねて虚心坦懐に対話を交わしたのに、その金日成が自分をブランチと追い詰めた事実に対して背信感を感じたようだ。しかしその頃の北朝鮮は金正日がすべての実権を行使していた。後日黄長Y(ファン・ジャンヨプ)先生などの証言で明らかになった事実だ。だから問題のファックスは金日成が送ったのではなく金正日が送ったのだ。もしも文牧師が当時北朝鮮内部の権力事情を正確に把握していたならば衝撃は小さかったはずだ。そうだったらもっと長く生きられたかもしれない。
 文牧師は長年の収監生活の間、自分なりの健康法を身に着けられ、それに関する本も出したこともある。そうしたことから初めて会う人も顔を見て健康状態を当てたりした。
 ある時文牧師が‘会ってみたら金日成は私が見るかぎり長くは生きられないようだ’と話したことを覚えている。しかし実際は文牧師が先に亡くなられた.”

以上

 
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