民主主義の話 @
現代は民主主義の時代
社会発展の歴史的視点で現代を規定するとしたら、現代は何時代と呼べるだろうか。そしてその指導思想は、どのような思想だろうか。この問いに対する答えは一言でいって、現代は民主主義の時代であり、その指導思想は民主主義の思想であるということだ。
ではそのことを明確にするため、簡単にこれまでの人類の発展過程を振り返ってみよう。
人間が動物界から抜け出し、社会的存在へと発展する過程は、人間生活が動物的なものから社会的なものにますます変化する過程である。そしてその過程は、世界が一つの生活共同体に統一することによって一旦完成する。すなわち、人間の自主的地位が低く、人々の社会的協調、協力関係が微弱な状態から、それが徐々に拡大強化され、全人類が一つの歴史的運動の主体に統一したとき、人類は世界の主人、自己の運命の主人となり、限りなく自主的で創造的な発展の道に足を踏み入れるということである。
このような人類発展の歴史的過程を大きく区分するとしたら、三つの段階に分けることができる。最初が原始共同体の段階であり、次は階級的支配体制の段階であり、三番目が民主主義の段階である。この三段階をおのおのさらに小さな段階に区分することも可能だ。
人間が社会的存在へと移行する過程は、長い年月にわたる紆余曲折の過程であった。原始社会では個人の生活能力があまりにも低かったため、人間が生存するためには、無条件、集団的協力が必要であった。個人の生活能力が備わるまでには長い長い歴史的時間を必要とした。人間の個人的生活能力が発展し、個人的生存活動が可能になるにつれ、個人間の生存競争が社会発展の推進力となっていった。
個人間の生存競争が集団間の競争に拡大し、勝利者集団と敗者集団の差が大きくなるにつれ、勝利した集団が、敗者集団を隷属させ支配する階級的支配体制の社会が出現することになった。そして社会での階級的地位を世襲的に固定することとなり、身分制度がもたらされた。その結果、封建社会ではすべての人々が階級的身分の位階体系に網羅され、階級的支配体制が確立した。この不平等な身分制度は、人間の自主的発展を阻害し、社会発展の桎梏となった。
封建制度を否定する反封建民主主義革命は、人類の歴史発展において画期的な意義をもつ大事変であった。
この革命の世界史的意義を認識するか否かは、現代の本質的特徴と未来を理解する上で決定的意義をもつ。この革命は、単に不平等な封建的身分制度を撤廃することによって人類社会の発展に新しい道を開いたということだけではない。それは、人間による人間に対する非人間的支配と隷属の歴史を終わらせ、人間の社会的本性である理性による自主的発展の道を切り開いた。それは偉大な歴史的本源的変革であった。
この革命によって人間は、はじめて自分が自主的で創造的な存在であることを自覚し、自己の運命を自分の力で切り開く力強い存在であることを確信した。これは、運命の主人が自分自身であることを認識した新しい人間の誕生であるといえる。
この革命で生まれた、自由と平等を人間の持って生まれた普遍的権利とする人権思想は、古代における平等の思想とは同じではない。古代平等思想の本質は、人間の能力を等価性の原則で平等に評価しようとしたものである。古代ギリシャやローマで民主主義が発展したといっても、それは奴隷を人間として扱わない奴隷制社会に基づいたものであった。そこでは、すべての人々に普遍的な人権思想は存在しえなかったのである。従って古代においては人権思想に基づく民主主義が存在できなかった。人権思想の有無こそが、古代民主主義と現代民主主義の違いを区分する核心である。
民主主義の話A
古代民主主義と現代民主主義の根本的違い
古代民主主義と現代民主主義の根本的違いは普遍的な人権思想が存在したかどうかである。
人権とは一言でいって、支配と隷属に反対し、自主的に生き、発展することを要求する人間の生存権であるといえる。社会が発展するということは、ほかでもない、社会の主人である人間の人権がより一層保証され、ますます高い水準で実現することを意味する。
人間は自主的で創造的な生活能力が発展するにつれ、より高い水準の人権を要求する。こうした人権に対する人間の本源的要求は、人間の自主的・創造的生活能力の発展を推進する力強い原動力となる。歴史は人権に対する要求が強い民族ほど発展したということを我々に示している。
人間は人権思想を持つことによって、人権を守りそれをたゆまず発展させていく生存と発展の明確な目標を持つことができた。人権の普遍的価値を認める精神的社会的結びつきが生まれることによって、それに基づいて、人類が一つの社会的生命体に結合し、限りない未来を切り開く道が開かれることとなった。
人権は人間が生存するための権利権利であるから、人間の生活能力の発展とともに、それが包括する内容と水準も高まる。人間の発展が限りないのと同じように、人権思想の発展にも限りがない。
社会的存在である人間の発展が、自主的で創造的な生活能力の発展であるとともに、人間相互間の社会的協調関係の発展でもある。それは家族と氏族、種族といったような小さな社会的集団の協調関係から、民族的協調関係、民族間の協調関係へと発展し、終局的には人類全体の社会的協調関係へと発展する。
人間の社会的協調関係が発展するにつれ、すべての人が平等に人権を持つという人権の普遍性も拡大する。その結果、人権思想は、すべての人は平等で、支配と被支配の関係もなく、民族間の不平等もないという思想に発展していく。人権思想は、こうしてあらゆる社会的不平等と特権に反対し、すべての人が国家と社会の主人としての地位を占め、主人としての責任と役割を果たさなければならないという思想に発展する。すなわち、人権思想の実現は、主権を、特権階層ではなく人民大衆が持つという主権在民の思想として具現するということである。この主権在民の思想こそが人権思想の集中的表現である。
人権思想と主権在民の思想は、民主主義思想の基本であり核心である。民主主義と反民主主義を分ける基準は、この人権思想と主権在民の思想を真に擁護しているかどうかにある。口先でいくら民主主義を叫んでも、人民を欺瞞し、人権問題を無視する者たちは、民主主義者の仮面をかぶった詐欺師たちであるといえる。
反封建民主主義革命当時の人々は、この革命の意義と、人権思想、主権在民思想のもつ意義を十分に理解したのではなく、不平等な身分制度の撤廃だけで理想的民主主義社会が実現できると思った。人々は、不平等を生まれながらのものとして受け入れる古い観念から開放され、生まれながらにして自由と平等を享受できるという新しい観念が支配することになった。このことで当時の人たちが喜びに沸き返ったことは想像に難くない。
しかし、新しい指導理念が宣布されたからといって、それが即、実生活に利用されるものではない。新しい歴史的時代がはじまったからといって、古い時代の残滓がすぐになくなるものではない。人類発展の歴史は、常に古いものを継承し、新しいものを創造する複雑な過程を通じてのみ実現するものである。今日、資本主義的民主主義が全面的に発達した先進国家でさえ封建時代の遺物と見られる古い残滓が残っているのに、ましてや、民主主義革命の初期に古い時代の残滓が多く残っているということは当然のことである。このことで新しい民主主義社会が、その優越性を十分に発揮しなかったからといって、民主主義革命によって生まれた新しい時代の革命的転換の意義を否定するのは誤りである。
民主主義の話B
民主主義に対するマルクス主義者の誤謬
反封建民主主義革命に対するマルクス主義者の誤った考えは、民主主義を理解し、現代の本質的特徴を認識する上で、今でも否定的影響を与えている。
マルクス主義者は、人類の発展過程を階級闘争の過程と見ることから、社会形態に質的変化をもたらす原因を、支配階級の階級的性格の差異にもとめており、支配階級の経済的支配形態である当該社会の生産方式の違いに求めている。彼らは歴史的な時代の交代が、支配階級の交代と支配階級の経済的支配形態である生産方式の交代によって起こると主張する。それ故、彼らは封建社会から資本主義社会への移行も、封建的生産方式が資本主義的生産方式に交代したに過ぎないと評価している。その結果、民主主義革命によって、民主主義の新しい時代が始まったのではなく、単に階級的支配形態だけが変わり、依然として階級支配の古い時代が続くものと理解した。 これが民主主義革命を理解できなかったマルクス主義者の第一の誤りである。
第二の誤りは、社会の質的変化の過程を、生産方式とそれに照応する政治的上部構造の形成過程と考えたため、反封建民主主義革命が資本主義政権の樹立で完全に終わるとしたことである。
彼らは資本主義社会が完成され革命が終わるにつれ、資本家階級の進歩的役割も終わり、資本主義社会も徐々に歴史発展を妨げる反動的社会に転化すると考えた。これとは異なり、社会主義的生産関係は、資本主義の胎内では萌芽すら発生することができず、労働者階級が暴力革命によって政権を奪取し、独裁政権の力によって作っていくものあると主張した。すなわち労働者階級の独裁政権樹立は社会主義革命の始まりに過ぎないとしたのである。
マルクス主義者の見解の不当性はあえて論理的に批判することもないだろう。古い時代の遺物である非民主主義的要素を克服するための闘いは、民主主義革命が勝利し、民主主義政権が樹立されたあとも長い間続けられる。反封建民主主義革命当時の資本主義社会と現代の資本主義社会がどれほど違っているかを比べるだけでもそれは明らかである。
マルクス主義者は、古い社会の残滓が多く残っている未熟な初期資本主義の欠陥を、資本主義社会の本質的欠陥であるかのごとく誇張し、それを批判することによって、労働者階級の支配する社会主義社会を目指す社会主義革命の必要性を提起した。そして資本主義から社会主義への移行の必然性を強調したのである。
マルクス主義者が主張するように、社会主義社会が資本主義社会よりもより発展した社会であるとするならば、何よりもまず、民主主義の発展水準が資本主義社会よりも高くなければならず、資本主義が発展した国々での社会主義への移行が合法則的でなければならない。しかし、実際にマルクス主義者の社会主義革命理論が歓迎されたのは、民主主義が発展した資本主義国ではなく、民主主義が未発達で封建的残滓が多く残っている遅れた資本主義国や、さらには、それよりも資本主義が発達していない植民地反封建的農業国家においてであった。
- 生産方式=人間が自然界に働きかけて社会に必要な生産道具や生活手段を得るシステム。ここには生産力と生産関係が含まれる。マルクス主義でよく使われる用語。
- 政治的上部構造=マルクス主義では生産過程で結ばれる人と人との関係を生産関係と呼び、この生産関係の総体を土台と呼ぶ。この土台から国家をはじめとするさまざまな政治的管理システムが生じるとする。すなわち、政治的上部構造とは、国家を含めた人間の政治的諸関係を言う。
民主主義の話C
民主主義は民主主義制度の反映ではない
社会主義独裁体制が、歴史的な大失敗で崩壊した後も、資本主義的民主主義の制約性を克服する解決策として、社会主義に似通った新しい社会形態を模索している人たちが残っている。これはいまだに社会経済形態の交代を中心に時代を区分しようとするマルクス主義的思考方法が、人々に影響を与えているということを物語っている。
こうした人々の根本的間違いは、民主主義が経済制度の土台の上に成り立っていると考えていることである。民主主義は経済制度を反映した政治的上部構造ではなく、社会的運動の主体である人間の自主的に生き、創造的に発展しようとする根本要求を反映した思想である。民主主義が保証されるということは、こうした根本要求を実現する担保が保証されるということである。
民主主義の思想は、人間活動の根本的な要求を反映している。それ故、この思想は、人間生活の発展を規定する根本原理となる。経済制度をはじめとする社会制度を反映したのが民主主義ではなく、それとは反対に、民主主義思想を実現するために打ち立てられた社会的形態が、ほかでもない民主主義的社会制度である。社会制度のために民主主義が必要なのではなく、民主主義のために社会制度が必要なのである。人間と社会制度、民主主義思想と社会制度は互いに制約し合ってているが主要なものはあくまで人間と民主主義思想であり、社会制度ではない。
民主主義の理念を経済分野に具現したのが資本主義的経済体制であり、政治分野に具現したのが議会制民主主義体制である。民主主義の理念が資本主義的経済制度と資本主義的政治制度を反映したと見るのは本末転倒である。このような見解は、社会の主人公であり、社会的運動の主体である人間を中心に社会的現象を考察するのではなく、社会的諸条件が人間を規定するという誤った思考の現れである。
反封建民主主義革命が勝利した後、民主主義理念を指針として、人類は目覚しい発展を遂げてきたが、その成果かいかに大きかったとはいえ、人権の普遍的価値と主権在民の全面的実現に照らしてみると、まだまだ初歩的な成果だといえる。これは今日、民主主義が歴史的使命を全うし、民主主義時代が終わったのではなく、民主主義が発展途上にあり、民主主義思想が依然として時代の指導理念であることを示している。時代の指導理念は、それが実生活に完全に具現するまでは、その地位を退かないし、指導理念が変わらない限り、歴史的時代も変わらない。今日の民主主義は民主主義革命の初期に比べれば、想像を越える発展を遂げてきたが、しかし現代は依然として民主主義の時代である。
とはいえ、現在、資本主義的民主主義が、一定の歴史的制約性を露呈していることも確かである。今われわれの前にはこの原因がなんであり、資本主義的民主主義の歴史的制約性を克服し、民主主義の一層の発展をもたらすためには、どのようにするべきかという問題が提起されている。
人間の自主的生存権を要求する人権思想や、人民が国家と社会で主人公としての責任と役割を果たす主権在民の思想は、人間生活の根本的要求を表現しているが、それは短期間に実現できるものではない。人権思想と主権在民の民主主義的要求を、実生活に全面的に具現するためには長期にわたる歴史的時代が必要である。これは民主主義の具体的内容が固定不変ではなく、初歩的な低い段階から高い段階へと一歩一歩発展完成していくことを意味する。
民主主義の話D
初期民主主義は個人中心の民主主義
反封建民主主義革命当時は、民主主義に対する人民大衆の理解も浅く、彼らの民主主義的要求を実現する物質経済的条件も低い水準であった。また民主主義的活動を支える社会関係の制度化や社会に対する民主主義的管理水準も低かった。
こうした状況のもとで人々の関心はまず、個人の運命を民主主義的に解決することに注がれた。その結果、民主主義革命を境に生活に根付き始めた民主主義は、基本的に個人の自由と平等を保障する個人中心の民主主義となったのである。
社会集団は個人によって構成されている。それ故、個人の自由と平等が保障されることで集団の自由と平等も保証され、集団全体の自由と平等が保証されればその構成員である個人の自由と平等もすべて保障されることとなる。そういった意味から、個人と集団の運命は、密接につながっており、個人と集団の利害関係も根本的にはつながっていると見ることができる。しかし個人と集団の利害関係はいつも一致しているわけではない。もし個人と集団の利害がいつも一致するのなら、この世には、利己主義者と非難される人も、集団の利益を侵害する犯罪者もいないだろう。
すべて個人は、一つの生命体として生存のための生命活動を展開するが、その集合体である社会集団も生命集合体としての集団的生命活動を展開する。ここでの違いは、集団の生命が代をついで限りなく続くのに対して、個人の生命は一代で終わるということである。
元来人間は個人的存在であると同時に、集団的存在である。この二側面はお互いに依存し、制約しながら一つに統一している。個人の側面が、人々の差異性と対立性を表すとしたら、集団的存在の側面が人間の同一性と統一性をあらわすといえる。個人と集団はどちらか一方にだけ偏ることはできないが、どちらかが優位を占めることはありうる。個人の生命維持が切実な段階では個人の側面が優位を占める。
個人は集団の一員として集団の生命保存活動に参加するが、まずは自分自身の生存に切実な利害関係を持つ。自己の生命が保存されてこそ集団の生命活動に参加できるからである。しかし集団の生命活動は、一代で終わるわけでないから、限りなく代をついで生存することに利害を持つのである。
孤立した個人の生命は無力である。人間は何よりも社会的に結合し、集団的に運命を切り開いてこそ自主的・創造的存在となり、世界の主人公となることができる。だが個人の生命保存が切実な状況のもとでは、人々は集団の利益を優先的に考える余裕はない。食べることが切実な人たちにとって、遠い未来に集団が実現する理想的生活は直接的関心事とはならないということだ。したがって、人々の物質的生活水準が低く、未来を展望する意識水準が低いときには、どうしても個人の利害関係を中心とした思考になる。
反封建民主主義革命を契機に、人類が人権に対する自覚を持つようになったのは、人間の自己覚醒の第一歩であり、個人的存在としての自分の価値を見出した出発点であるといえる。自由も平等も個人を念頭に置いたものであった。これがすなわち個人中心の民主主義である。
個人中心の民主主義を経済分野と政治分野に具現したのが資本主義的経済形態と多党制議会民主主義であると言える。資本主義経済が市場中心の経済であるとしたら、資本主義国の政治は議会中心の政治であるといえる。議会は政治的市場と見ることができる。個人中心の民主主義が発展することによって、個人の自主的地位と創造的役割は飛躍的に向上したが、集団の地位と役割は相対的に低下することとなった。まさにこのことの中に現在の資本主義的民主主義が露呈している歴史的制約性の根拠がある。
民主主義の話E
資本主義的民主主義の問題点とその克服方法
個人中心の民主主義は、個人の自主性と創造性を発揮させることにより個人間の競争を激化させる。この競争が社会発展の原動力となる。
しかしこの過程で勝者と敗者が生まれ、その格差がどんどん広がっていく。貧富の差が大きくなり、失業者が増大するにつれ、個人の生存自体が危うくなる。そして勝者が敗者を隷属させ支配する非民主主義的現象まで現れる。これは民主主義の基本理念である人権と主権在民の思想に反するものである。こうして資本主義的民主主義の制約性を克服する問題が提起されることとなった。
資本主義的民主主義の歴史的制約性を一言で言うならば、それは人間の集団性を軽視するところにある。前にも述べたが、人間は個人的存在であると同時に社会的集団的存在である。社会的集団的存在が人間のもう一つの側面であることを忘れてはいけない。したがって資本主義的民主主義の制約性を克服し、それを新しい高い段階に発展させるためには、徐々に個人中心の民主主義を集団中心の民主主義に結びつけていかなければならない。 それは資本主義的民主主義を全面否定するのではなく、その歴史的制約性だけを除去することを意味する。
資本主義的民主主義の肯定的内容を継承し、それを新しい高い段階の民主主義の中に包摂していかなければならない。新しい高い段階の民主主義は個人中心民主主義の合理的内容と集団中心民主主義の合理的内容を有機的に結びつけた総合的で包括的な民主主義である。個人中心の民主主義が持つ自由競争と、集団中心の民主主義が持つ相互扶助と協力の団結力が結びつけば社会の発展速度は加速化する。こうなれば個人の利益と個人の自由にだけ重きをおく個人利己主義や自由放任は克服され、また集団の利益と統一にだけ重きを置く平均主義及や集団主義的独裁も克服できる。
こうした問題と関係して多くの人々は、資本主義の運命について問題を提起している。
いまだにマルクス主義の社会構成体理論から抜けきれない人たちは、社会が発展すれば、資本主義的経済形態とは質的に異なる経済形態が社会を支配し、一方で資本主義的経済形態はその姿を消すだろうと考えている。彼らは一つの経済形態のもとでは、必ず一つの所有形態だけが存在すると主張するのである。
このような人々は、資本主義が個人中心の民主主義に基づく経済形態であることを理解していない。資本主義の運命は、すなわち個人中心民主主義の運命であるといえるのだが、個人中心の民主主義は、民主主義がいくら高い段階に発展してもなくならない。それは人類社会がいくら発展しても人間の存在が、個人的側面と集団的側面という二側面の統一であるという真理の普遍性と関係している。
発展した新しい民主主義は、個人中心の民主主義原理と、集団中心の民主主義原理を結びつけ、個人の利益と集団の利益を共に保証する社会関係、社会制度を要求することとなる。こうした民主主義的要求に合わせて所有形態も決定されるだろう。個人的所有が人々の要求と利益に合致すれば、その対象を無理やり集団的所有に変えることはない。集団的所有が管理するのに適しており、人々の利益に合致するのであればわざわざ個人所有にしなくてもよい。たとえば個人が必要な物資を自由に売買する「市場」のような経済形態をなくす必要があるのかということである。
所有形態をいうならば、それは民主主義の発展とともに、個人所有の経済形態、集団的経済形態、その両者を結びつけた経済形態など様々な経済形態が並存し、お互いに依存、補完し合いながら経済生活全般的の発展に貢献していくことだろう。
人間が個人的存在であると同時に集団的存在であるということを忘れてはならない。
民主主義の話F
民主主義発展の中心勢力は中産階層
資本主義的民主主義(個人中心の民主主義)を、新しい高い次元の民主主義に発展させるには、どのような社会階層に依拠し、いかなる方法で実現すればよいのか。
マルクス主義者は、社会が発展すると中産階層はすべて分解して消滅し、ごく少数の大資本家階級と、絶対的に貧困化する労働者階級に分化すると主張した。そして大多数を占める労働者階級は、資本家階級を打倒して社会主義社会を建設すると考えた。しかし資本主義が発展するにしたがいマルクス主義者のこの主張が正しくないことが明らかになった。
歴史的事実は、資本主義の発展とともに、中産階層が消滅するのではなく、むしろ一層増加することを証明した。資本主義の発展に伴い科学技術が急速に発展した結果、生産に直接従事する勤労者の数は減少し、非生産部門に従事する勤労者の数が大幅に増加した。米国で一八九〇年から一九八二年までに生産労働に従事した労働者と農民の数は、住民の八四%から三七%に減少したが、ホワイトカラーの数は一〇%から四九・一%に増加した。
経済生活の面から見ると、中小商工人と手工業者、自営農民が中産階層に属し、勤労者の中で圧倒的比率を占める技術労働者や知的労働者の物質生活水準もおおむね中産階層に近いと見ることができる。また、文化活動に従事する人たちの生活水準も中産階層に近いと見ることができるし、国家管理に従事する公務員や社会管理に従事する勤労者の物質生活の水準も中産層に近いといえる。
資本主義の発展とともに勤労者の物質生活が豊かになるだけでなく、文化と政治の分野でも一般住民の参加が大きく進んだことにも注目する必要がある。科学教育、保険、文学芸術と出版報道部門など文化的事業に参加する住民の数が大幅に増加することによって、全般的に勤労者の文化水準が向上したし、政治分野にも多くの勤労者が従事することによって一般勤労者の政治文化水準は飛躍的に高まった。
このように、あらゆる事実は、資本主義的民主主義が発展するに従い、経済生活の面では中産階層が住民の過半数を占めるとともに、彼らの政治・文化水準も
大きく向上し、社会の主導的勢力として登場することを示している。
中産階層は既得権にあぐらをかいて遊んで暮らすとか、不当な利益を得ようとする人たちではなく、自己の創造的活動で自主的な立場を守ろうとする勤労者たちである。それ故、彼らは既得権を維持するため社会正義を無視して民主主義の発展を阻害する保守勢力ではない。中産階層は資本主義的民主主義の制約性を克服し、民主主義をより発展させることに利害を持つ人たちである。また現存する資本主義的民主主義を破壊して平均主義的分配を要求する急進主義者でもない。
資本主義社会が発展するに従い、中産階層が大幅に増え、彼らの政治水準と文化水準が高くなるということは、すなわち資本主義的民主主義を発展させる社会勢力が準備されるということである。
資本主義発展の結果、社会発展過程に起きた重要な変化は、政治、経済、文化の三大生活分野がそれぞれ相対的に独自な発展の道に入ったということである。資本主義社会は経済中心社会から出発したため、初期には政治と文化が経済に依存する傾向にあった。しかし資本主義社会の発展とともに政治と文化が急速に発展し、経済に対する相対的立ち遅れが克服され、政治と文化は独自の使命を果たせるようになった。
元来人間が、社会的存在として社会的に存在し発展するためには、物質的生活手段を生産する経済活動、自己をより力強い存在とする文化活動、人間を協調させ力を発揮するようにする政治活動の三大活動を展開しなければならない。この諸活動は、お互いが密接に依存し、制約する関係ではあるが、どれかひとつから他が派生するものではない。民主主義がより一層発展するためにはこの三つの活動を発展させつつも、特には政治活動の独自性を強化しなければならない。そのためには、政党の政経癒着をなくし、絶えず国民大衆に対する民主主義教育を行い、民主主義の理念で彼らを組織動因していかなければならない。もちろんこの中心勢力は中産階層である。
民主主義の話G
中産階層の役割と民主主義の世界化
資本主義的民主主義を高い段階の民主主義に発展させるためには、政治の独自性を強化することが必須条件である。社会関係を統一的に管理して改造することは政治が担う分野であるからだ。そして、資本主義的民主主義の制約性を認めず、それをそのまま維持しようとする保守勢力と、逆に、資本主義的民主主義の肯定面を認めないで全面否定する急進勢力の抵抗を退けなければならない。
そのためには政権が国民大衆の支持に基づいて民主主義的改革を立法化し、社会が公認する「法」に基づいてそれを推し進めなければならない。この任務を遂行するのが、ほかでもない中産階層だ。しかし中産階層には弱点もある。中産階層は、民主主義の一層の発展に利害を持っているが、自らが依拠する自立的土台が弱いことから、自己を守ることに主要な関心が向く。その結果、共同目的実現のための自己犠牲的団結が弱くなる傾向がある。
人間は孤立すると不安で心細くなるが、結びつき集団をなせば、信念が強くなり、勇気と大胆さを備えるようになる。それ故、政権が中産階層を民主主義改革の担い手とするためには、彼らに新しいより高い次元の民主主義思想を与え、左右の反民主主義勢力と戦えるように思想的・組織的連帯を強化しなければならない。
元来、個人中心の民主主義である資本主義的民主主義を、集団的民主主義と結びつけて、より高い次元の民主主義にする改革運動は、より発展した民主主義理念実現への大衆的国民運動であるといえる。中産階層はこの国民運動の中で、発展させた高い次元の民主主義理念を身に付け、それを信念にまで高めて組織的に団結しなければならない。そうしてこそ自己の使命を全うすることができる。そのためには政治的指導勢力である民主主義政党が、政経癒着を克服して独自の民主主義力量となることが必要だ。この勢力が中産階層を新しい民主主義の価値観で教育し、意識化組織化すれば民主主義の高い段階へと進むことができるのである。
では民主主義の世界的普及はどういった過程をたどるのであろうか。
それは一言でいって民主主義がすべての国家や民族を覆い、人類がひとつの共同体になる過程を通じて実現される。
現在、人間生活の世界化は、国家と民族を基本単位とする生活共同体から、人類全体を単位とする共同体への過渡期にあると言える。
人間生活の世界化は、民主主義革命によって始まった。「人間は生まれながらにして自由であり平等である」とする民主主義の核心思想、人権思想は、特定の民族や国民にだけ適用するものではなく、全人類を念頭に置いた普遍的思想である。この思想は、それまで人間生活の中心であった経済生活分野に具現され、経済中心社会である資本主義社会をもたらした。この資本主義は人間生活を世界化する上で巨大な足跡を残した。
しかし人間生活の世界化は一気に成し遂げられるものではない。まず資本主義が全地球を覆い、資本主義的民主主義の普及が各国各民族の中に浸透していく必要がある。それととも古い社会の思想である反民主主義的思想、特には独裁思想との戦いが求められる。独裁思想は、人権思想が出現する以前に社会にはびこった思想であり、社会主義だけではなく、資本主義とも結びつき、民族主義とも結びつく。この戦いは国家と民族を基本単位とする生活共同体から、人類全体を単位とする共同体への過渡期における主要な戦いの内容となる。
それ故、現在朝鮮半島における金正日独裁政権との戦いは、民主主義の世界化を実現する重要な内容となる。反金正日闘争は一民族や一国家の利益だけの戦いではない。
(終)