コリア国際研究所
headder space2 トップページ サイトマップ
 
北朝鮮研究
南北関係研究
在日社会研究
在日経済研究
朝日・韓日研究
朝米研究
民主主義研究
コラム
資料室
研究所紹介
 

6・15共同宣言が韓国にもたらしたものは何か?

2005.6.15
康仁徳元統一部長官

起死回生の転機を与えた南北共同宣言
新たな統一戦線用語「民族同士」、「民族共助」

6・15共同宣言が発表されて、いつのまにか5年が経った。
2000年6月13日、金大中大統領(当時)が北朝鮮の順安空港に到着し、金正日総書記の出迎えを受け抱擁し合う姿がテレビで生中継された時、韓国国民はもちろん世界各国の国民も歓迎の拍手を送った。それは3年間の血みどろの同族争いによって刻まれた、国民それぞれの深い傷跡と怨恨を解き、分断55年にして韓半島が脱冷戦時代を迎えることができるという期待と希望がこめられていたからだった。
こういった国民の期待に応えるように南北間には長官級会談を始め、多様な会談が忍耐強く行われ、その結果、南北間の人的・物的交流と人道的、経済的協力が多方面で進められた。

5年間の変化

去る五年間、政治・社会・文化・宗教・言論など各界の人士の南北往来は9,500万人を越えた。貿易取引も急成長し、2000年14億2500万ドル、2001年14億3000万ドル、2002年16億4200万ドル、2003年17億2450万ドル、2004年16億9700万ドルに達した。
分断直後に断絶した京義線(ソウル─新義州間)、京元線(ソウル─元山間)鉄道と道路が、休戦ラインを越えてつながり、金剛山観光客と開城工団入居企業の資材と製品が行き交っている。
投資保障、所得に対する二重課税防止、商取引紛争調整手続き、清算決済協定などが締結され、経済協力の制度的基盤が構築された。また1971年以降提起されたが進展のなかった南北間の人道的問題解決も進められ、一万人にも及ぶ離散家族が、10回にわたって親・兄弟と再会し喜びに浸った。また年平均30万トンの食料と20万トンの肥料が北朝鮮国民の救助のために支援されている。
一方、南北間の軍隊にも多少の変化が起こった。休戦ラインを通じて昼夜をとわず展開されていた心理戦ともいわれる放送は中断され、電光などを利用した宣伝設備も撤去された。
シドニーオリンピック入場式で、南北の選手団が韓半島旗の振って共同入場した時は、世界中から拍手喝采をあびた。最近では北朝鮮の美しい女性が韓国企業の広告モデルとして出演するというニュースも流れた。このように共同宣言からの5年間、多くの変化があったことは事実だ。

韓国が得たものと失ったもの

しかしこのような変化にも関わらず、共同宣言発表後の情勢に対する韓国国民の評価は決して肯定一辺倒ではない。5年が経った今、私達が得たものと失ったものは何だろうか。
韓国当局と住民の対北認識変化のように北朝鮮当局と住民の対南認識変化は起こったのだろうか。
統一を目指す過程で最も重要な問題である南北間の軍事的な信頼構築はどこまで成し遂げられたのだろうか。こうした問題について、北朝鮮の対南戦略・戦術を熟知している世代や過去の南北対話に関与した専門家たちは冷酷といえるほど否定的評価を下している。
結論から言えば、この間北朝鮮は、核兵器を開発し、韓国の在野親北朝鮮勢力を利用して韓国内の対北朝鮮認識を変化させ、反米自主化、反戦、平和などのスローガンで親北勢力を組織化する統一戦線戦術を系統的に展開し、広範囲な親北勢力形成に成功した。反面、韓国の対北変化努力は大きな成果を出せず、いわゆる太陽政策による「一方的支援」で、金正日政権の崩壊を阻み、彼らに起死回生の転機を与えたといえる。

軍事的緊張緩和に進展なし

 問題の第一は、6・15共同宣言自体が、南北間の軍事的緊張を緩和し和解協力の道を模索するカギとなる「平和問題」に全く言及していないばかりか、1991年12月、南北間で協議した「和解と不可侵および交流協力に関する合意書」まで死文化させ、南北間の軍事的緊張緩和と信頼構築のための対話の機会を封鎖してしまったことだ。
6・15共同宣言の核心である第一項では「統一問題を、その主人であるわが民族同士が、互いに力を合わせて自主的に解決していく」と記述している。6・15共同宣言は「民族同士」という用語を使い、これまで北朝鮮が執拗に展開してきた反米・自主化統一戦線戦術の大々的展開を保障したのである。この「民族同士」という用語が、変化する情勢に合わせた北朝鮮の新しい反米・自主化拡大のための統一戦線スローガンであることは共同宣言発表直後に早々と判明した。 
6・15共同宣言を発表して、金大中大統領(当時)がソウルに戻って一日経った6月16日、平壌放送は「米国はこれ以上、自主平和統一を妨害せず米軍の南朝鮮占領を終わらせる勇断を下さなければならない」と主張した。
それにも関わらず金大中大統領は「南北首脳会談の一番重要な成果は、これ以上、韓半島で戦争が起きる事がなくなったこと」と言いながら、「過去には自主を外勢排撃の意味として解釈したが、これからはそのように狭く見るのではなく、周辺国と友好を保ち、われわれの問題を南北が自主的に解決して行かなければならない。金正日総書記も韓国に駐屯している米軍の存在を認めたうえで論議した」と主張した。
このような主張は、決して北朝鮮政府の真意を正しく把握したものではないということが日が経つにつれ明白になった。
6・15共同宣言が発表されて4年が過ぎた 2004年6月、ソウルで開催された「6・15共同宣言─回顧と展望」というテーマの国際討論会に北側代表として招待されたアジア・太平洋平和委員会の副委員長李ジョンヒョクは祝辞で「北と南は『民族同士』の旗、自主民族の旗を高く掲げ、民族共助の道を力強く進まなければならない。同盟関係も重要だがもっと重要なのは南北関係だ。もちろんそこには友邦との共助もあるが基本は民族共助だ」と主張し、反米・統一戦線強化を促した。
一方主題発表に登場した北朝鮮統一問題研究所副所長のウォン・ドンヨンはいっそうはっきりと露骨に 「6・15南北共同宣言の真髄、基本核は『民族同士』と言える」と述べ、「アメリカは 6・15共同宣言によって、朝鮮半島に軍事的存在を維持する名分も、戦争政策を合理化する口実も完全に失った」と主張した。そして「6・15 共同宣言があり、偉大な先軍政治と南の広範な反戦・平和運動がある限り、いかなる外勢も朝鮮半島で戦争を起こすことは出来ない」と強弁し、核開発の正当性を主張すると共に「韓国の安保を保障する力は北朝鮮の軍事力」というとんでもない論理を展開した。
しかし残念なことに、このような北側の主張が虚言といえない事件が韓国では起きている。例えば去る5月15日、白昼に光州空軍飛行団領内に侵入しようとしていた3000余名の親北朝鮮デモ隊によって数100メートルの堅固な鉄條網が破壊される事件が発生した。これらのデモ隊は、「北朝鮮の中長距離ミサイル攻撃に備えて配置したパトリオットミサイルは、米国が対北先制攻撃のために配備したものである。韓半島の戦争抑制のため、このミサイルを撤収せよ」と要求したのだ。過去であれば当然軍刑法違反事件として連行された状況であったが、警察に連行され処罰を受けた人はいなかった。
過去の5年間、韓国の政治・社会的な環境は、親北左翼勢力が民族自主化のスローガンを掲げて、反米・民族主義を公然と叫ぶだけでなく、組職化された反米・不法暴力行為をほしいままにすることができるまでに変化した。

核と通常兵器の対峙に変化

第二に、この五年間、休戦ラインを挟んだ南北間の軍事的対決は、核兵器を持った北朝鮮軍と通常武器で武装した韓国軍の対決という質的変化をもたらした。
6・15共同宣言の真髄と北側が主張する 「民族同士」、「民族共助」は、韓国内の対北擁護認識を拡大させ、金正日政権に対する警戒心を弛緩させただけでなく、南北間の和解・平和定着とは正反対の核を持った北朝鮮軍と核ない韓国軍の対峙という最悪の軍事的対決状況をもたらした。
北朝鮮が最悪の経済状況であったにもかかわらず、莫大な開発資金が必要となる核・ミサイル開発を推進することができたのは「民族同士」のスローガンを掲げ、韓国の助けを借りたからだという保守派の主張が決して間違ったものではないことを裏付ける事件が実際にあった。
2003年6月、6・15共同宣言発表から 3年が経った時、国民は青天の霹靂のような驚くべき事実を知った。それは首脳会談成功のために現代グループ鄭夢憲会長が国家情報院の協力を受けて、なんと4億5000万ドルの現金を金正日総書記に秘密裡に提供したというのだった。この闇取引を通じて首脳会談が成立し共同宣言が採択されたというのだから、この共同宣言が南北の緊張を緩和し、平和を定着させたとはとてもいえるものではない。
2002年 10月、訪朝したジェームズ・ケリー米国務省東アジア太平洋担当次官補に、北朝鮮の姜錫柱第一外務次官は、米・朝が調印したジュネーブ基本合意(1994年)に違反して秘密裡に推進して来た高濃縮ウラン核開発を認めた。この事実を見ても、韓国からもらった資金で核開発を行ったという主張を否認することは出来ないだろう。
去る2月10日、北朝鮮は公式に核兵器保有宣言を行った。続けて去る 3月31日、外務省声明を通じ「すでに6カ国協議で凍結と補償問題を取り交わす論議の時期は過ぎた。私たちが核兵器保有国家になった今、6カ国協議は当然参加国間が平等な姿勢で問題を解く軍縮会談にならなければならない」と主張した。そうであるかと思えば 「私たちの力強い核抑止力によって米国の北侵戦争計画が挫折し、朝鮮半島の平和が安全に保障された。南朝鮮はわが国の先軍政治と核抑止力の恩恵をこうむっている。わが国の宝剣がなかったら米国による朝鮮半島での戦争が数百回起きたはずであり、そうなれば南朝鮮も無事ではない」(5月6日祖国平和統一委員会声明)と主張しながら、韓国に対する露骨な脅迫と恐喝を行っている。
今日の南北対峙の状況は五年前とはその次元が異なる。核を持った北朝鮮軍が登場した今の南北関係は、一つ間違えば民族共倒れを招く核戦争を誘発する危険がある。「平和」は後退して戦争の危険が増大しているのだ。

韓米同盟の亀裂

第3に、6・15共同宣言発表後の五年間、韓国内では極端な「南南対立」とともに、過去50年間、わが国安全保障の支柱となってきた韓米同盟に大きな溝ができ、安保危機が押し寄せているにも関らず危機意識を感じない国民の安保不感症が広がった。
大統領選挙が終わった翌日の 2002年12月19日、最も権威あるNGOの経済正義実践連合(経実連)は 「盧武鉉大統領当選者に望む」という声明を発表し、その初項で 「金大中政権の対北政策の過ちは、国民の合
意を得ないで一方的な政策を推進したこと」と指摘した事があるが、そうしたことから保革対立、世代間の対立が起こることとなった。
例えば2000年9月 2日、金大中政権は、468人の拉北者と1万9千余名の生存国軍捕虜送還問題には一言半句北に申し入ず、在日工作員辛光洙を含む63人の未転向長期囚を北朝鮮に送り返した。また廬武鉉政権スタート以後、テレビ媒体などが国家の正統性を否認するかのような特集を放送するだけでなく、政府・与党が先頭に立って、国家保安法廃止、言論規制法制定、過去史糾明法制定などわが国の安全保障を担保していた政治・社会・文化的基盤を瓦解させる政策を強行した。
はなはだしくは朝鮮労動党の政治局候補委員として知られている在独学者宋斗律(ソン・ドゥユル)の帰国のために、政権中枢の実力者たちまでが積極的に彼を擁護した。このありさまだから南南対立が激化しないはずがない。
さらには、盧武鉉大統領の北朝鮮核問題に対する発言によって同盟国と友邦国家のわが国に対する不信は一層深くなった。
例えば「北の核が自衛手段という北朝鮮の主張にも一理がある」だとか「北朝鮮が核開発するのは誰かを攻撃するとかテロを支援しようとすることなどと断定することはできない」などの発言(2004年11月、米国ロスアンゼルス)は、多分に北朝鮮をかばっているとの誤解を受けるものだった。
言うまでもなくこのような廬武鉉大統領の発言は、6・15共同宣言発表後に形成された対北警戒心の急速な緩み、北側が主張する「民族同士」、「民族共助」に対する無原則な同調意識が政府・与党内に存在する証拠と理解されても仕方ないものだ。

変化した韓国変化しない北朝鮮

このような事実に注目した時、6・15共同宣言以後、金大中と廬武鉉、二つの政権の対北政策と安保政策がもたらした弊害を嘆かざるを得ない。
果して韓国が変化したように北朝鮮も変わったのだろうか?本質上変わったものはない。韓国の進歩然としている親北朝鮮知識人の中で、北朝鮮核問題や北朝鮮人権問題に対して糾弾する文を書いた者がいない。それもそのはず、6・一15同宣言発表以後、政府自らが北朝鮮人権問題を糾弾する UN人権委員会決議案採択に棄権するありさまなのだから仕方の無いことかも知れない。
北朝鮮を脱出した朝鮮労動党統一戦線部工作員が指摘するように、韓国政府と在野親北朝鮮勢力が、朝鮮労動党統一戦線部の外柔内剛戦術にはまり、いわゆる 「三位一体」の反米・自主、反戦米軍撤収の闘いが韓国各地で起きていることからして、韓米同盟が揺らいでいるという批判は受けざるを得ないであろう。
6・一15共同宣言に明記した金正日の韓国訪問は5年が経った今も実現されていない。この一つの事実だけでも6・15 共同宣言は北朝鮮政府によって破棄されていると言っても過言ではない。
結局私たちは去る5年間、韓半島の平和でもなく、民族間の和解でもない、「核を持った北朝鮮」と次元が異なる新しい対決状況を招き入れることとなった。もう私たちはこれ以上 「民族同士」、「民族共助」の統一戦線スローガンにあやつられて親北朝鮮 「騒動」を繰り広げないようにしなければならないし、北朝鮮核問題解決のための力強い対北圧迫を加えなければならない。
そのためには、韓米同盟をより強化して韓米日共助体制を一層緊密化し、わが国の安保をしっかりとした基盤の上に再構築しなければならない。

 
著作権について

COPYRIGHT©Korea International Institute ALLRIGHT REDERVED.
CONTACT: info@koreaii.com