コリア国際研究所
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民族教育擁護問題を考える

2007.6.2
コリア国際研究所所長 朴斗鎮

 在日コリアン社会は、世代交代と少子化が進み、国際結婚が重なることによって、民族的アイデンティティを維持しながら国際性との調和を図ることが重要な課題として提起されている。この課題解決の鍵となるのは、「教育問題」であろう。
 在日社会において「民族教育」をいかなる形式と内容で維持発展させるか、特に朝鮮総連系「朝鮮学校」の「国家主義的国民教育」を「民族教育」にいかにして転換させるかは、今後の在日社会の帰趨を決める問題といっても過言ではないと思われる。
 以下では、「民族教育」に関心を持つ日本のある有識者と朴斗鎮との「朝鮮学校」と「民族教育」についてのやり取りを掲載する。「民族教育問題」を考えるうえで参考にしていただければ幸いである。

 MY様    2007・3・4

 枝川朝鮮学校と在日コリアンの諸問題で奮闘されている先生に初めてメールを送らせていただきます。
 私は、1968年から1975年まで朝鮮大学校で教鞭をとった朴斗鎮と申します。現在はコリア国際研究所の所長をしております。私の子供たちも朝鮮学校で学ばせました。
 先生の指摘どおり「枝川朝鮮学校の取り壊し裁判」は歴史的経緯を無視した裁判であります。その不当性を明らかにすることは重要なことだと考えます。
 しかし先生がこの裁判で意義を付与されているもう一つの側面、「民族教育の権利」の側面については、もう少し精密な検証が必要ではないかと考えます。すなわち朝鮮総連系「朝鮮学校」の教育が、純粋な意味での「民族教育」かどうかという問題です。
 朝鮮総連系の学校は、自らの教育を現在も「民族教育」と謳っています。私も一時そう考えました。しかし私が朝鮮大学校で学生に教えていたことを振り返ると「単なる民族教育」といえない部分があります。
 それは一言で言って「金日成・金正日崇拝教育」が中心の教育であるからです。
確かに在日朝鮮人にも国家権力と結びつかない「民族教育」の時代はありました。それは1955年に朝鮮総連が結成される以前のことです。
 現在行っている朝鮮総連結成後の朝鮮学校教育は、朝鮮民主主義人民共和国の国民教育なのです。朝鮮民主主義人民共和国の言語が「朝鮮語」で、その歴史が過去の朝鮮半島の歴史を受け継いでいることから、この「国民教育」は「民族的形式」を取らざるを得ないのですが、その内容は「金日成・金正日を絶対的に崇拝する」国民教育なのです。従って今もなお中学・高校では「金日成・金正日崇拝の歴史」や「主体思想」の教育が中核となっています。勿論教科書もあります。
 これまでも多くの朝鮮学校の先生や学父母が、こうした「国民教育」ではなく「民族教育」とするためさまざまな提案を行ってきました。特に金正日総書記の日本人拉致謝罪以降その動きを強めました。こうした動きに対して朝鮮総連中央は「朝鮮学校は在日同胞の学校」ではなく「金正日将軍の学校」だとして教育現場からこうした人たちを排除しました。
 「朝鮮学校」が朝鮮民主主義人民共和国の国民教育であることは、教授の職位、博士号などすべての職位称号が朝鮮民主主義人民共和国から授与され、教科書もそこで検定されたものを使っていることからも明白です。
 先生は「この裁判が、在日の子どもたちが民族教育を受ける権利が憲法上および国際人権法上保障されているか否かを争うはじめての裁判だということです」とおっしゃっていますが、例えば朝鮮民主主義人民共和国で、日本の天皇や総理大臣を崇拝する教育を国際人権法上保障されているとして許すでしょうか。
 結論として「国民教育」が国際人権法上保障されている「民族教育」に該当するかどうか、民族教育確保のためにも慎重な検討が必要でないかと考える次第です。

                                  朴斗鎮

 MYさんからの返信    2007・4・14

 朴さん、こんにちは。ご連絡をいただいたのですが、大変お返事がおそくなり、失礼 しました。
 現在の朝鮮学校で行われている教育は、「民族教育」といえるのかどうか、とのご指摘は、大事な問題だと思います。
 しかし、何が「民族教育」か、とりわけて、何が、真の民族の利益となる、民族のための教育といえるのか、というのは、それぞれの立場から、いろいろな意見があるところです。
 また、それを、朝鮮民族ではない日本人が、それが「民族」教育か否か、との点について、どこまでふみこんでいけるのか、ということも問題でしょう。
 また、「国民教育」とはなにか、「国民教育」なら、保障されないのか、というのも、むずかしい問題のように思います。たとえば、現在日本に約100学校存在するブラジル学校は、ブラジルは多民族によりなりたっているため、そこでおこなわれているのは特定の「民族」教育ではなく、あえていえば「国民」教育です。ブラジルで使われている教科書が多くのところで使われています。
 そこに通わせている親たちの願いは、やはり、母国の言葉・文化を忘れないでほしい、ということで、その願いは、私は保護されるべきだと思います。「国民」教育と、国家主義的教育の区別もむずかしいところです。仮に、朝鮮民主主義人民共和国が独裁国家でなく民主国家であった場合にも、その国の政府公認の教育は「国民」教育だから保障されなくてよい、ということになるのかどうか、という問題もあります。
 私は、あえていえば「民族学校」「民族教育」の保障を主張しているのではなく、日本に住むすべての子どもに対し、その国籍・民族にかかわらず、みずからのルーツに関わる言語・文化・歴史などの教育を受ける権利を学習権の一環として、日本の政府が保障すべきだ、ということです。私自身は、「民族教育」という言葉でなく、「継承語教育」(自分の親などのルーツにかかわる言語・文化などを継承する教育)という用語をできるかぎり使うようにしています。
 朴さんのご指摘は受け止めたいと思いますし、いずれは、外国人学校・民族学校でなされている教育内容についての議論をするときが来るかと思いますが、現在、私はその方向を深く掘り下げる余力はなく、至らないところがあるとは思いますが、ご理解いただければ幸いです。

 M・Y

 MYさま   2007・4・16

 お返事有難うございました。
 先生のご指摘通り朝鮮総連傘下の「朝鮮学校」問題とその教育について、どう関わるかは簡単ではありません。そこには朝鮮半島の分断と日本政府の国家利益が複雑に絡んでいるからです。
 先生の指摘された『私は、あえていえば「民族学校」「民族教育」の保障を主張しているのではなく、日本に住むすべての子どもに対し、その国籍・民族にかかわらず、みずからのルーツに関わる言語・文化・歴史などの教育を受ける権利を学習権の一環として、日本の政府が保障すべきだ、ということです。私自身は、「民族教育」という言葉でなく、「継承語教育」(自分の親などのルーツにかかわる言語・文化などを継承する教育)という用語をできるかぎり使うようにしています』との方向性は私も同感です。この方向こそ「民族教育」であると考えます。この方向で朝鮮学校が再編されることが最も理想的だと考えています。
 この考えを実現する上で障害になるのが国家権力の介入であります。特に朝鮮民主主義人民共和国のような専制主義国家の「国家権力」の介入は大きな障害をもたらします。また、かたくなにマイノリティの権利を認めようとしない日本政府の対応も深く関係しています。日本政府が正しい民族政策を実施していたならば、民族教育は正常に発展していたかもしれません。
 朝鮮民主主義人民共和国の国家主義的介入は在日朝鮮人が当然享受すべき教育権利の確保にも障害を与えています。この障害を教育分野から除去するには、朝鮮学校の教育を民族的アイデンティティを継承しながら普遍的価値観である人権と民主主義に基づいた教育にしなければならないと考えます。そうしてこそ「その国籍・民族にかかわらず、みずからのルーツに関わる言語・文化・歴史などの教育を受ける権利を学習権の一環として」堂々と主張できると思います。また日本社会とも共存できるのではないでしょうか。
 しかし現在の朝鮮学校は、朝鮮民主主義人民共和国政府によって支配され「金日成・金正日崇拝」が基本の「国是教育」となっているため(ちなみに朝鮮大学校の張・学長は朝鮮民主主義人民共和国の国会議員です)このような教育が実施できないのです。
 「朝鮮学校」の教育内容を吟味もしないで単純に「民族教育」の場として擁護することは「金日成・金正日崇拝」の教育を間接的に擁護することとなり、在日社会によい結果をもたらしません。また子供たちの正しい人格形成を目的とする「子供の学ぶ権利」を奪うことにもつながると思います(現在朝鮮学校の生徒と学生は、ほとんど朝鮮総連関係者の子供たちです。一般の在日朝鮮人の子供は激減しています)。そして日本政府に対してもその権利を強く求めることが出来ない弱みを持つことになります。
 先生は「国民教育では保障されないのか」との問題を提起され、ブラジル学校は「あえて言えば国民教育」と指摘して、その根拠を教科書がブラジルで使われているものであることに求められました。
 私が問題にしている国民教育は教科書だけのことではありません。教科書を含めた学校教育全体のシステムが特定国家に支配され、その国の「国是」が教育の中心となる教育を指して言っているのです。教科書を「ブラジルで使われているものを使っている」だけの教育を指しているのではありません。また国の教科書を使っただけで国民教育となるかどうかも疑問です。
 さて「国民教育では保障されないのか」との問題ですが、「国民教育」は「民族教育」とは異なる教育であると考えます。特に国家主義的傾向の強い国民教育は「多民族共生」を前提とするマイノリティ教育とは相容れないと考えます。
 「国民教育」を外国で行う場合、それはマイノリティの権利としてではなく、外国人の地位と権利としての問題となり、国家間の関係が提起されると思います。そのとき敵対国の国民教育を認める国家はないと思われます。ところが朝鮮民主主義人民共和国は日本を「敵区(敵地区)」と呼んでいるのです。これでは日本国民の支持は得られません。だからこそ朝鮮民主主義人民共和国は日本(敵地区)での「国民教育」をマイノリティの「民族教育」に偽装」しているのです。
 朝鮮学校の場合、1955年5月に朝鮮総連が結成されるまでは、確かに「民族教育」でありそれはマイノリティの権利に属するものでした。この教育はいかなる国家権力の支配も受けていませんでした。「4・24教育闘争」は民族教育擁護の戦いでした。
 しかし朝鮮総連結成以後、彼らは自らを朝鮮民主主義人民共和国の海外公民団体と宣布して共和国の支配下に入り、在日朝鮮人に共和国の国民教育を実施したのです。ここから朝鮮学校の教育は共和国の「国是」を教えることが中心の教育となったのです。
 朝鮮総連が自らを朝鮮民主主義人民共和国の海外公民団体というならば、自らの教育を外国人の権利として主張していけばよいのです。その教育内容のすべてをあからさまにして、それが彼らの言う国際人権規約や子供の権利条約で認められる教育であるかどうかを日本社会と国際社会に問うてみればよいのです。
 私は朝鮮民主主義人民共和国の「国是」教育すなわち「金日成・金正日崇拝」教育をなくさない限り、国際社会が認める「民族教育」とはならないと考えています。
 結論として「国民教育では保障されないのか」との先生の問いに対する私の答は、「国民教育」の保障は「民族教育」の保障を求めるマイノリティの権利規範ではなく、外国人としての権利規範に求めるべきであり、それは国家関係に大きく依存するということです。極端に例えればヒトラーの教育を受け入れる社会や国はないのではないかということです。

                                  朴斗鎮

 
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