目次
1、最近までも流布された「高英姫=高春幸説」
2、高英姫を高春幸と間違えた背景
3、「柔術愛国者」の内容は、高春幸が高英姫ではないことを語っていた
4、「柔術愛国者」の著者を高英姫と主張した人たち
5、高春幸に関する資料
韓国や日本での北朝鮮情報には誤報が多い。古くは韓国の金日成死亡大誤報、最近では全く違う人物を金正恩だとして写真入で大々的に報道した日本大手新聞社の誤報もあった。直近では韓国の情 報機関やメディアが流した「金正恩訪中誤報」などが記憶に新しい。しかし、こうした誤報は、間もなく訂正されている。
だが訂正されないまま脈々と生き続けた誤報がある。それが金正日総書記の夫人高英姫(コ・ヨンヒ)に関する誤報だ。元プロレスラー高太文の娘−高春幸(コ・チュネン)を高英姫と間違えた「情報」がそれだ。日本の「ウィキペディア」までがこの誤報をそのまま載せている。金正恩が後継者となった今、この誤情報を正しておかないと、北朝鮮中枢情報でより深刻な間違いを犯す可能性もある。
当研究所は、すでに2007年12月14日付けで、韓国国家情報院の発表資料を基に、その間違いを指摘し、その後も折に触れ言及してきたが、一度信じ込まれた「事実」はなかなか訂正されなかった。
当研究所ではその後も引き続き、高春幸が高英姫ではないとする裏付け調査を続けてきたが、最近やっと在日帰国者ルートを通じて、高春幸一家が現在、平壌市中区域トンアン洞で、夫チョン・ヒョンソン氏(1972年3月、163次帰国船で帰国、2005年10月現在平壌機械大学学部長)と二人の息子ジンヒョク、クァンヒョクの4人家族で暮らしていることを確認した。そればかりか関係者の努力によって、高春幸一家の記事が掲載されている北朝鮮の中央通信(2000年1月21日報道)や民主朝鮮(2005年10月4日)も入手した。
1、最近までも流布された「高英姫=高春幸説」
高英姫の出自については、日韓の情報筋やメディアの間で在日朝鮮人出身であることまではほぼ確認されてきた。しかしその詳細については不正確な点が多かった。
日本では、鈴木琢磨氏の「金正日と高英姫」(イースト・プレス2005年出版)をきっかけに、高英姫が在日柔道家高太文(後にプロレス転向した大同山)の娘高春幸であるとの説が一般化し定着した。この情報は主に在日朝鮮人の朝・日往来者を通じてもたらされたものであるが、裏づけが取れない状況もあって日本での定説となった。韓国のメディアや情報筋もこの説に振り回されていたが、韓国国家情報院からの情報提供もあって2006年12月にようやく誤情報から決別することができた。しかし、日本では今もなおこの誤情報を真実として受け止めているジャーナリストが多い。
たとえば「柳町達也」なる人物は、週間新潮2009年7月2日号で『将軍様後継「正雲」実母は大阪で生まれた「シンデレラ」やさかい』との題名で「高英姫=高春幸」であるとの記事を掲載した。
この筆者は、「高英姫と高春幸は同一人物であるが、それを打ち消したかったために『柔道愛国者』(「柔術愛国者」の間違い)なる父の伝記をわざと出版したとする「新説」を打ち出している。その根拠について「日本で知られている実像を巧みに抹消し、別人としておくことでフリーハンドで彼女を神格化できると踏んだのであろう」と主張した。
また山藤章一郎なるジャーナリストは、金正恩氏の祖父が、かつて「力道山と腕相撲して勝った」などと「高英姫=高太文の娘説」を週刊ポスト2010年11月5日号におもしろおかしく掲載した。
そればかりか朝鮮問題に詳しいジャーナリストとして知られている産経新聞ソウル支局長の黒田勝弘氏までもが、産経新聞2010年11月5日付で、「彼女の父(つまり金正恩の祖父)は高文太(注・高太文の間違い)という。戦前、済州島から大阪に渡り、戦後は柔道家になってプロレス界にもいた。北朝鮮では柔道界の幹部として知られた」などと報道した。
高英姫と高春幸は同一人物だとの情報を日本で広めた鈴木琢磨氏も一時自説に疑問を持ち、毎日新聞2007年12月12日付夕刊で次のように指摘していた。
「脱北した多くの帰国者の新たな証言を拾っていくと、これまで大阪の鶴橋で柔道家、高太文の娘として生まれて帰国した女性とは別の、もうひとりの高英姫が浮かんでくるのです。
彼女の本名は高英子、在日同胞の帰国者であることは一緒ですが、お父さんは咸鏡北道のミョンガンの化学工場の労働者だった、と聞きました。(中略)
金日成主席が還暦を迎えたとき、工場労働者だったお父さんは、祝いの飾り盆をつくって贈り、英雄称号を与えられ、平壌に移住した、と脱北者のひとりは語っています」(毎日新聞2007年12月12日夕刊)。
真実に接近し始めた鈴木琢磨氏であるが、なぜか再び「高英姫=高春幸説」に逆戻りして文芸春秋2011年3月特別号の中で次のように記している。
「・・・金正日は高英姫を見初める。72年から足しげく、彼女のいる万寿台芸術団を現地指導しているのが確認できる。彼女は成分(北の身分)が悪いとされる在日帰国者。父は南の済州島出身、元プロレスラー、革命神話づくりにマイナスになるが、かまわなかった」。
鈴木琢磨氏がなぜ逆戻りしたのかはわからない。
2、高英姫を高春幸と間違えた背景
高英姫と高春幸を同一人物と間違えた背景には、この二人が、同姓でほぼ同じ年齢であったことと、同じ済州島出身の北朝鮮帰国者家族であり、偶然同時期に「万寿台芸術団」に属していたことが重なことがある。そしてこうした情報が在日ルートでもたらされたために、確認が取れているものと錯覚し、誤情報が独り歩きすることになったようだ。
高春幸を高英姫とした情報源は高太文のそばにいた人たちから流されたと推測される。
在日朝鮮人帰国者の中に、金アノン(安弘)という柔道家がいた。彼の家庭は熱烈な朝鮮総連一家であった。帰国した彼は北朝鮮で高太文の指導を受け、1963年11月にインドネシアで開かれた「GANEFO(新興国競技大会)で優秀な成績を収めた。
この金安弘氏については「柔術愛国者」の中で高春幸が何度も言及しているところから高太文氏に相当近かったようだ。当然、金正日が高春幸に接触しているという話も高太文氏か高春幸から聞いていたはずだ。この金安弘氏など高太文氏の「弟子」を通じて「高英姫=高太文の娘説」が在日家族や関係者にもたらされた可能性が高い。
というのは金安弘氏の弟には金有弘(67)という人物がいて、1965年に朝鮮大学校を中途退学し北朝鮮に帰国している。彼は金日成総合大学に編入し卒業しているが、1980年代中ごろに資金集めの任務で公式に日本に来ている。その時にこうした情報を家族や友人に流布していたようだ。もちろん彼だけでなく高太文氏に近い他の帰国者や在日朝鮮人脱北者からもこうした情報がもたらされた可能性もある。
北朝鮮に住んでいたからといって金正日ファミリーの情報に接することは難しい。ましてや裏取りは不可能だ。金正日が何度か高春幸と面会していたことから、似通った両者の出自から高春幸と高英姫が混同され、その情報が日本にもたらされた可能性が高い。
韓国中央日報2006年12月2日付はこの辺の事情に関して次のように報道した。
「金正日北朝鮮国防委員長の夫人が2006年7月に出版したと報道された自叙伝形式の本は高氏とは何の関係もないことが明らかになった。
政府当局者は1日「問題の本を書いたコ・チュネン(高春幸)は済州道出身の北送同胞高太文の娘であり、コ・ヨンヒ(高英姫)は高春幸とはまったくの別人」だと言明した。奇しくも両人が済州道出身の在日同胞で、北朝鮮に定着し芸術団員として活動したことから生じた混同であると説明した。
平壌で出版された「柔術愛国者」という本は、柔道選手出身で北朝鮮の柔道発展に寄与した父親を娘の春幸が回顧し北朝鮮体制を賛辞する内容となっている。特に「1973年のある日の11時、寝室に入って寝ようとした時、将軍様がお待ちであるとの連絡がきた」など金委員長との関係を暗示する内容も含まれている。
日本の毎日新聞は、2006年11月30日付で「著者は高英姫ではなく彼女の本名である高春幸となっている」と報道し、国内の一部言論機関もこれをそのまま紹介した。一部では金正日委員長の後継問題と関係があるのではないかとの観測まで出された。その間、北朝鮮専門家たちは、朝総連関係者の証言などをもとに「高英姫の父親はコ・テムン(高太文)」という主張を事実として受け入れてきた。
しかし、関係当局は最近平壌の「ロイヤルフアミリー」に対する情報を入手し、新たな事実関係を把握した。それによると高英姫は1999年に死亡した在日同胞コ・ギョンテクの娘であることが判明した」(中央日報2006年12月2日)。
この記事が出た直後、聯合通信は「高春幸は高英姫ではない」として次のように伝えた。
「韓国の国家情報院(国情院)は、在日朝鮮人出身で 1960年代に北送(北朝鮮帰還)された故高太文 さんの伝記を出版した北朝鮮の高春幸さんは、金正日総書記の夫人だった高英姫(2004年死亡)さんと同一人ではないと再び確認した。
国情院は 22日の報道資料で 「高太文 の伝記の'柔術(柔道)愛国者'を書いた高春幸と高英姫は全然違った人物」とし、 「高春幸は1950年生まれで高太文(1980年死亡)の娘だが、高英姫は 1952年生まれで高・ギョンテック(1999年死亡)の娘」と述べた。
このように国情院が再度確認したのは、日本の毎日新聞が去る 11月 30日、高太文さんの生涯を扱った伝記を刊行した高春幸さんを高英姫さんと伝えたのに加え、韓国内のある月刊誌までも同じような内容を報道したからである。
国情院はまた '肉親的愛'という表現を根拠に '金正日−高春幸恋人説'が提起されていることと関連、「'肉親的愛'と言う表現は、北朝鮮の労動新聞などで通常に使われる文言」と指摘し、恋人説が事実無根であることを遠まわしに確認した(2006年12月22日)。
この時、国家情報院から発表された高英姫と高春幸の家族関係と経歴は次の通りである。
高英姫(1952年生、2004年死亡)
父 高ギョンテック(1913年生、1999年死亡)
母 李○○(1912年生まれ、死亡)
兄弟
兄 高○○(51年生まれ)
妹 高○○(56年生まれ、女)
経歴
万寿台芸術団舞踊家 04年死亡
高春幸(1950年生)
父 高テムン(1920年生、1980年 死亡)
母 金○○
兄弟
兄 スンヘン(45年生まれ)
弟 スンウン(54年生まれ) 朝鮮柔術協会副書記長
経歴
平壌芸大
国立民族歌舞団(70年)
万寿台芸術団
平壌外国語大(73年)
朝鮮民俗博物館外国語講師
朝鮮芸術交流協会部員(2006年現在)
資料出処 韓国国家情報院(2006年12月1日)
この資料で示された高英姫の父親である高ギョンテック氏が在日帰国者であることは、デイリーNK東京支局長の高英起氏が発掘した「朝鮮画報1973年3月号」で確認された。
3、「柔術愛国者」の内容は、高春幸が高英姫ではないことを語っていた。
高太文を回想する形の高春幸の著書「柔術愛国者」は、高春幸が高英姫でないことをいたるところで明らかにしている。
まず第1にその装丁である。
タテ16.3cm、ヨコ12.5cmのこの本は、後継者の生母が書いた本としてはあまりにもみすぼらしい。表紙は薄っぺらい画用紙のようなもので装丁されカバーもつけられていない。本文をつづった紙質は茶色く、北朝鮮のものとしても最低のランクに近い。後継者の生母の本としてはあまりにも粗悪だ。金正日が後継者として登場した時の「金貞淑本」と比べればあまりにも差がありすぎる。
次第2に「愛国」という表現である。
北朝鮮で「愛国」という表現は「革命」という表現よりもランクが低い。高春幸が金正恩の生母であり高太文が外祖父であれば、「愛国」という表現は使わない。必ず「革命」という表現を使っているはずだ。それは北朝鮮における「革命墓」と「愛国墓」の違いを見れば明らかだ。
第3は、発行された年である。
高英姫は2004年に病死したというのが定説である。しかし高春幸著の「柔術愛国者」が出版されたのは、2006年7月20日となっている。高英姫の死後2年が過ぎて書かれているのだ。北朝鮮といえどもこうした辻褄の合わないことは行なわない。後継者に絡む事柄であればなおさらだ。
第4は事実関係の違いだ。
高英姫は「万寿台芸術団」の一員として1973年7月に日本に来たと言われているが、高春幸はその時すでに体を壊し平壌外国語大学に入学しており「万寿台芸術団」の一員ではなかった。
この経緯を「柔術愛国者」で高春幸は次のように書き綴っている。
「主体62(1973)年1月28日だった。その日は大寒が過ぎたとはいえ外は非常に寒かった(中略)。
夜おそくなったのでもう寝なさいというように、壁にかけてある時計が11時の鐘を打った。私が部屋の灯を消し、寝床に入ろうとしたら戸をたたく音がした(中略)。
お父さんですかと聞きながら戸を開けた私はびっくりせざるを得なかった。戸の前には全身雪に覆われた顔見知りのある職員が立っていたからだ(中略)。
何のことだろうと思ってキョトンとしている私にその職員は、いま外で敬愛する将軍様がが吹雪の中でお待ちになっていると知らせてくれた(中略)。
敬愛する将軍様は、トンム(注・同務−同等以下の人に話しかける時に使う言葉)が健康を害し、芸術活動をするのが難しくなったので、外国語大学に行かせてほしいとの報告を受けたとされながら、トンムの希望通り外国語大学に送ろうと思うと暖かくおっしゃった」(「柔術愛国者」、213−214ページ)。
この内容で分かるように高春幸は1973年初には体を壊して外国語大学(平壌外国語大学)への進学が許されている。「万寿台芸術団」が訪日(1973年7月30日)したのは高春幸が外国語大学に進学した後である。したがってこの時高春幸は日本に来ていない。
このことを裏付けるように同じ本の中で次のようにも述べている。
「私は敬愛する将軍様の暖かい愛と信頼のなかで、シンガポール、イラクなどアジアはもちろん、フランス、スイスをはじめとした西ヨーロッパを訪問し、主体朝鮮の芸術人としての矜持と自負心をもって踊り舞い続けた」(「柔術愛国者」、223ページ)。
彼女のアジア訪問の中に日本は入っていない。
第5は、経歴の公開である。
高春幸が高英姫であれば、金正恩の後継を考えてでもここまであからさまに経歴を明かさないと思われる。
藤本健二氏は、「北の後継者キム・ジョンウン」(中公新書ラクレ、2010年10月10日発売)で次のように述べている。
「高英姫夫人は在日朝鮮人出身で、幼いころ日本から北朝鮮に渡ってきた帰国者である。しかし、日本語を話すのは聞いたことがなく、帰国者であるような素振りは一切見せなかったので、私はしばらくの間、気がつかなかった。89年ごろ、北朝鮮で結婚した私の妻、厳正女から聞かされてはじめて知ったのだった」(62ページ)
すぐ傍にいた藤本氏にさえ帰国者であるような素振りは一切見せなかった高英姫が、2006年になって自分の出自を詳細に明らかにするというのは大きな矛盾である。金正日の妻であれば、語らないのが自然である。
4、「柔術愛国者」の著者を高英姫と主張した人たち
1)鈴木琢磨氏
「金総書記夫人:死亡説流れる中、高英姫さんが父の伝記出版 」
毎日新聞電子版 2006年11月30日
北朝鮮の金正日(キムジョンイル)総書記の妻、高英姫(コヨンヒ)夫人が柔道家だった父の生涯をつづった伝記を出版し、毎日新聞はこれを入手した。題して「柔道愛国者」。死亡説が有力な高夫人が筆を執ったこと自体が不可解で、後継者問題ともからんで憶測を呼んでいる。
伝記は7月20日に平壌の体育出版社から刊行された。著者は広く知られる高英姫ではなく、本名の「高春幸(コチュネン)」。表紙は柔道着姿で胸を張る高夫人の父、高太文(テムン)氏の写真があしらわれ、扉には金総書記の「お言葉」が載っている。
伝記は済州島生まれの父が、日本に渡ってからの苦労を描く。興味深いのは高夫人の「過去」。帰国は61年5月の第58次帰国船、自宅に今も帰国同胞歓迎の絵を飾っている、と書く。また、民族学校に通わずに大阪・鶴橋の小学校で学んだが、差別されたと告白している。さらに、自身の仕事を「朝鮮芸術交流協会の部員」と明かし、世界各国を巡った、と記す。
02年には軍内部で夫人を「尊敬するオモニム(お母さま)」と称する偶像化キャンペーンがはじまり、息子の正哲(ジョンチョル)氏が後継者の有力候補に挙がったが、04年になって夫人の死亡説が流れ、日韓の当局者の間では夫人の死亡は定説となっていた。
伝記は7月のミサイル発射実験直後に出版され、父を顕彰するスタイルだが、明らかに高夫人の自叙伝となっている。ある韓国の情報関係者は「後継者問題に何らかの決着がついた証しではないか」と指摘。日朝関係筋は「夫人と父を取り上げることで、テポドンや核実験で孤立する祖国に対する在日の愛国心を高めようとしているのでは」と分析する。【鈴木琢磨】
2)辺眞一氏
「高英姫伝記からの真実」
辺真一コリアレポート2006年12月03日
金正日総書記の3番目の妻と称される、高英姫(コ・ヨンヒ)氏が本名(コ・チュンヘン)で柔道家の父親、高太文の生涯を綴った自叙伝「柔術愛国者」を7月20日に出版しました。全文227ページにわたる伝記は韓国の済州島から渡日した父親が1961年に北朝鮮に一家を連れて、帰国し、生涯を終えるまでの回想で終始していますが、興味深い、新たな事実が判明しました。第一に、正確な年齢がわかったことです。日本では「1953年生」が定説とされていましたが、正確には、1950年生まれでした。「11歳の1961年5月18日に帰国した」と書かれてありました。従って、生年月日は1950年6月16日ということになります。兄弟は、兄と二人の弟がいて、名前まで明記されていましたが、妹については一言も触れられていませんでした。妹夫婦が4〜5年前に米国に亡命したため、彼女の存在を抹消したのかもしれません。
次に経歴もわかりました。高英姫さんは、大阪の生野区で生まれ、生野区北鶴橋小学校に通っていました。朝鮮学校に通っていたというのは誤りでした。北朝鮮に渡ってからは5年後の1966年(16歳)で平壌芸術大学に入学、70年(20歳)に卒業後、国立民族歌舞団に入団しております。この年、映画「金剛山の処女」に踊り子として出演し、金正日総書記の目にとまったようです。71年には万寿台芸術団に入団、73年に退団し、平壌外国語大学に入学しています。大学卒業後は、朝鮮民俗博物館外国語講師として、また、その後は朝鮮芸術交流協会会員として訪朝する外国の芸術家らとの仕事にあたったとされています。
興味深いのは、万寿台芸術団への抜擢は金総書記の直々の指示でした。71年10月27日、宴会を開いた際に彼女を隣の席に座らし、「自分が万寿台芸術団に呼び寄せた」ことを明らかにしています。また、金総書記は73年1月28日、雪降りしきる深夜、健康を害して、自宅で療養していた高英姫氏を見舞っていました。「健康上、舞踏を断念し、外国語大学で学びたい」との希望を受入れたことをわざわざ伝えるためにです。「困ったことがあったら、直接訪ねて来るように」と言われたと書かれてありますが、どうやら、金総書記のプロポーズだったのかもしれません。それと、もう一つ注目すべきは70年4月8日に普通江区域の食料品商店で現地指導に訪れた金日成主席から偶然、声を掛けられたとのくだりです。「金剛山の処女」の映画に出ていたのを覚えてくれて、金主席から「立派な俳優になるよう」と励まされたと書かれています。ちょい役で出ていたのを覚えているとは、不自然の感じもしますが、これは、金主席からすでに「金正日の愛人」としての「認知」「お墨付き」をもらっていたということなのかもしれません。この他にも、万寿台芸術団当時にシンガポールやイラク等アジアを、フランス、スイス等欧州を訪問、公演したことは書かれていましたが、日本を訪問したことは書かれていません。実際に、日本に来た時は、すでに踊り子を辞めていたわけで、日本公演では万寿台芸術団のマドンナ(主役)として、舞台で踊ったというこれまでの「定説」は誤りでした。
著書を読み終えて、「彼女はひょっとすると生きているのでは」との疑問が浮かび上がってきました。2年前にフランスの病院で亡くなったというのがこれまた「定説」となっています。しかし、今日まで裏が取れておりません。正確に言うと、いまなお、「未確認情報」のままです。それと言うのも、死亡したとされるフランスの病院も、死亡した時期も今日まで特定されていないからです。彼女が亡くなったことを証明、確認するものが何一つありません。脱北者の証言もありません。本の最後のほうで「数年前に私は4月の春の親善芸術祝典の迎接実務代表団の一員としてモスクワを訪れた」と書かれていました。この本の出版は今年の7月です。ということは、乳癌で亡くなったとされる1年前まで、外国に飛び回っていたということになります。普通では考えられません。もちろん、12年前に死亡した金日成主席の自叙伝が今なお本人の名前でシリーズ出版され、何巻も続いていることを考えると、高英姫夫人がすでに亡くなっていたとしても不思議ではありませんが、とにもかくにも、裏が取れないので困りました。
3)河信基氏
「金正哲祖父の「伝記」の意味」
河信基の深読み2006/12/1(金)
金正日総書記の後継者と見られる金正哲(ジョンチョル)の外祖父・高太文(コ・テムン)の伝記「柔道愛国者」(写真上)が、7月20日にピョンヤンの体育出版社から刊行された。
正哲は元在日の高英姫(コ・ヨンヒ)を母に持つ異色の経歴だが、伝記の著者はその実母である。高英姫は04年にフランスで死亡したが、いま改めて著者として復活し、正哲の家系を語らせているのが、いかにも北朝鮮の政治文化らしい。
外祖父も愛国者であったとして、後継者としての金正哲の正統化を図っているのである。正哲が公式にデビューする日は、さらに近付いたと考えられる。
伝記は毎日新聞が入手し、「金総書記夫人:死亡説流れる中、高英姫さんが父の伝記出版」と、以下のように報じた。
著者は高英姫ではなく、本名の「高春幸(コチュネン)」。表紙は柔道着姿で胸を張る高夫人の父の写真があしらわれ、扉には金総書記の「お言葉」が載っている。
伝記は済州島生まれの父が、日本に渡ってからの苦労を描く。高夫人の帰国は61年5月の第58次帰国船、自宅に今も帰国同胞歓迎の絵を飾っている。また、民族学校に通わずに大阪・鶴橋の小学校で学んだが、差別されたと告白している。さらに、自身の仕事を「朝鮮芸術交流協会の部員」と明かし、世界各国を巡った、と記す。
伝記は父を顕彰するスタイルだが、高夫人の自叙伝となっている。ある韓国の情報関係者は「後継者問題に何らかの決着がついた証しではないか」と指摘。日朝関係筋は「夫人と父を取り上げることで、テポドンや核実験で孤立する祖国に対する在日の愛国心を高めようとしているのでは」と分析する。
同記事は、高英姫死亡説を疑い、行外に生存を匂わせているが、死亡説は間違いない。金総書記の事実上の後妻として、金玉という女性も半ば公然化している。
正哲の権威付けに政治的目的があり、金正日の生母がそうであったように、著者の生死はあまり意味がない、つまり、飾りに過ぎない。ゴーストライターがいるのである。
「高夫人の帰国は61年5月の第58次帰国船」という記述は、私が著書で明らかにしたことと一致している。
著書では「帰国直前、東京都荒川区にある第一朝鮮初中級学校初級部3学年3班に編入し、在学期間は3ヶ月ほど」(第二章急浮上した三代目後継者)と記したが、伝記には「民族学校に通わずに大阪・鶴橋の小学校で学んだが、差別されたと告白」とあるという。
これは、金総書記の祖父母の伝記にもみられた偶像化であろう。日本の小学校で差別に苦しめられたとする一種の階級思想教育である。貧農、労働者、被差別体験が北朝鮮では成分を決める規準になる。
7月に伝記が出された意味は、「後継者問題に何らかの決着がついた証し」というよりも、正哲の公式デビューが近いという方がより正しい。
伝記は大衆レベルの政治思想学習の必読文献として読まれているだろう(だから、外部に流れ出た)。
「テポドンや核実験で孤立する祖国に対する在日の愛国心を高めようとしている」は、うがち過ぎである。
なお、著書で、高太文について「北朝鮮出身の力道山の向こうを張って、大同山又道としてプロレスデビューしたが、挫折した。・・・紅白常連の在日歌手Wの父親も島田道場同門で、一緒に東亜プロレスを設立した仲間」と書いた。
伝記にそれが記されているかどうか不明だが、在日歌手Wは和田明子である。最近、本人が父親のことを語りだしたと聞いたので、付け加えておく。
5、高春幸に関する資料(翻訳 朴斗鎮)
(1)「時代精神が花か咲く家庭/平壌機械大学学部長家庭を訪ねて」
(平壌)2000年1月21日発 朝鮮中央通信
朝鮮中央通信ウェブサイトより引用
首都の夜空を白く覆う雪が降った少し前のある日、私たちは平壌市中区域のトンアン洞に住む平壌機械大学再教育学部学部長チョン・ヒョンソン先生の家庭を訪ねた。
昨年12月の在日朝鮮公民の帰国実現40周年の放送夜会の舞台に出演したこの家の奥様のコ・チュネン(高春幸)女性が私たちを歓び迎えてくれた。
彼女の案内で応接間に入った私たちは、取材過程でよく感じることだが、この家庭でも今進められている強盛大国建設に積極的に役立とうとするわが時代の人びとの熱い息使いが感じられた。
ちょうど家庭では先生の長男のジンヒョク君が創作した歌詞「テホンダンのラッパの音」に対する批評会が進められていた。
熱気を帯びた家族の批評会が気に入ったという私たちのことばに、ヒョンソン先生は、息子が金亨禝(キム・ヒョンジク)師範大学語文学部の作家養成班に通っていると言い、すでにいくつかの歌詞をはじめとする作品を発表し、敬愛する将軍様の高い評価を受けたと話した。
真に情熱的な思索と探求精神が高く多情多感な家庭だった。先生は次のように話を続けた。
「私たちの息子が文学を愛するように私は科学を愛します。日本の京都市南区吉祥院で出生した私は、幼い時から科学に格別な夢を持ち熱心に勉強しました。
しかし、少しずつ分別がつくにつれ、朝鮮人の尊厳が無惨に踏みにじられ蔑視される日本ではその志と抱負を成就することが出来ないと痛感するようになりました。それで私は科学を勉強するとしても我が国、我が民族のための科学、祖国の富強繁栄に尽くす真の科学者になる決心を抱いて主体61(1972)年3月、163次帰国船で祖国に帰国しました」
社会主義祖国の懐で彼は学問への志を思う存分花咲かせた。
彼は平壌機械大学を卒業後、ここで科学と技術で祖国を支え奉じていく決心を持ち、今までその道で真の生きがいと幸福を享受してきたことに対して、誇り高く話した。
この間に彼は「計算機支援設計による機械部分品図面作成方法に関する研究」をはじめとする10件余りの価値ある研究論文を発表し、これを人民経済の様々な部門に導入することによって国家に大きい利益を与えた。一方、「機械技術者のための自動設計基本」「計算機支援設計」等、20余冊の教科書と参考図書も書いた。
博士であり、副教授である彼は、わが国で先端技術による機械工業を発展させるうえで頭角を現わす権威ある科学者に成長した。彼は、この部門で仕事をする数多くの科学者、技術者らを、最先端技術を備える人材として再教育養成するうえで大きな役割を果たしており、数十人の学位・学職所有者を育てた。
先生は、国の科学技術を一日も早く世界的水準に押し上げることに対する敬愛する将軍様の意図を奉じ、最近では設計現代化と関連した電子計算機支援設計装置の一式と万能材料機など教育設備を準備して、大学の物質技術的土台を築くうえでも大きな寄与をした。
次世代教育と科学研究事業に尽くした功労で、先生は敬愛する将軍様の愛と配慮を幾度も受け、高い級の国家受勲の名誉を何度も受けた。
いつのまにか時間が経ち、私たちはコ・チュネン(高春幸)先生の詰も聞きたくなり、彼女に話題を向けた。
「私と私の父(コ・テムン)に注がれた偉大な首領様と敬愛する将軍様の愛と恩情については、すでにたくさん紹介されたので、皆さんもよくご存じだと思います」
そう語りながら彼女は、仲睦まじい家庭の幸せな瞬間を味わうにつけ、家庭と子供を持った女性として、このすべてを与え守ってくれる母なる祖国の恩恵深さを心熱く感じるのですと話した。
「そして、母はいつも我が将軍様の軍隊である人民軍に対する援護事業においては誰よりも熱心です。敬愛する将軍様は私たちの家庭に二度も感謝示してくれました」
平壌外国語学院に通う次男のクァンヒョク君の口から瞬間に出た誇りが込められた言葉だった。
私たちは、彼の言葉で銃台を重視して、社会主義祖国を貴重に考える、この家庭の力強い信念を感じることができた。
私たちは、より大きな事業成果で強盛大国建設に真に尽くすこの家庭の新年決意が現実に花咲く明日を確信し先生の家を出た。(終わり)
朝鮮中央通信http://www.kcna.co.jp/index-k.htm
過去記事2000年1月21日より
(2)「愛と恩返し 平壌機械大学学部長チョン・ヒヨンソントンムの家庭で」
民主朝鮮2005/10/04
偉大な指導者金正日同意は次の通り指摘された。「私たちの人民は社会主義制度がどれくらい貴重かということを実生活を通して、深く体験しています」平壌機械大学学部長チョン・ヒョンソントンムの家庭は幸せな知識人家庭だ。恩恵に満ちた社会主義祖国の懐の中でチョン・ヒョンソントンムは平壌機械大学を卒業して大学の学部長として働いており、彼の妻コ・チュネン(高春幸)トンムは平壌外国語大学を卒業して朝鮮芸術交流協会部員で働いている。そして長男チョン・ジンヒョク君は金亨禝師範大学を卒業して博士院で,次男チョン・クァンヒョク君は平壌外国語大学卒業斑で勉強している。
過去、資本主義日本の土地で民族的蔑視と迫害の中をさまよったチョン・ヒョンソントンムは、父なる首領様誕生の60周年をむかえ、首領様に差し上げる在日同胞の忠誠の手紙を伝達するための自転車行進団の一員として祖国のふところに抱かれた。祖国は彼の希望のとおりに平壌機械大学で思う存分学べるようにしてくれ、大学卒業後は技術人材養成基地の教育者にしてくれた。
恩恵に満ちた祖国の懐の中で彼は副教授、学士(博士の間違い?)として育ち、今は大学の学部長として働いている。
夢多い専門学校時代に父なる首領様にお会いするという、この上なく大きい光栄に浴したコ・チエネン(高春幸)トンムは、敬愛する将軍様の手厚い愛の中、万寿台芸術団で芸術活動を行なった後平壌外国語大学で勉強し、今は芸術部門の対外事業の働き手として活躍している。
最も優れた社会主義制度の恩恵の下で、思う存分学んて育った彼ら夫婦に続き、今では二人の息子たちも、一切の金銭的負担もなく大学を卒業したことから、彼らの家庭は真に幸せな知識人家庭であると人々にうらやましがられている。古典文学専門家として将来が期待されている長男のチョン・ジンヒョク君は大学期間だけでも、詩歌「チャンチョリ」をはじめとする、様々な歴史文学作品と叙情詩「プルンイッキ(青い苔)」をはじめとする詩作品を発表し、専門家たちの注目を集めている。幼いころからピアノ演奏が上手く、美術でも格別な才能があり多才多能な人材として人々の称賛を受けてきた次男チョン・クァンヒョク君も能力ある外国語専門家に成長している。社会主義祖国の懐で、自分たちが受けた愛と恩恵をいつも胸深く刻んでいるチョン・ヒョンソントンムとその家族は、それに応えようという美しい心を抱き、祖国の隆盛繁栄と社会と集団、同志たちのために多くの素晴らしい仕事をしてきた。
敬愛する将軍様は人民軍軍人を援護する事業に積極的に参加して重要対象建設場に対する支援事業、人民生活向上と技術人材の養成事業に尽くすという素晴らしい仕事を多くしたチョン・ヒョンソントンムに何度も感謝を送って下さり、全国援軍美風熱誠著大会をはじめとする様々な大会にも呼んで下さり、この上なく大きな信頼と愛を与えて下さった。私たちと会ったチョン・ヒョンソントンムはこのように話した。「歌にもあるように、社会主義祖国の懐がなかったなら、私たちは羽根のない鳥のような運命をまぬかれませんでした。それゆえ貴重な祖国のためにレンガの一枚でも着実に溜め、真の愛国の心を捧げたいのが私たちの思いです」祖国の貴重さを心から感じている我が人民は、今日、−誰もがこのような美しい恩返しの心、愛国の心を抱いて祖国のためにあらゆるものをすべてを捧げている。
リュ・ソンナム記者
民主朝鮮2005/10/04
以上