コリア国際研究所
headder space2 トップページ サイトマップ
 
北朝鮮研究
南北関係研究
在日社会研究
在日経済研究
朝日・韓日研究
朝米研究
民主主義研究
コラム
資料室
研究所紹介
 

黄長Y(ファン・ジャンヨプ)元書記の急逝から1年

コリア国際研究所 朴斗鎮
2011.10.10

 黄長Y朝鮮労働党元書記(北朝鮮民主化委員会委員長)が急逝(2010年10月10日)してから1年が過ぎた。6日には韓国で「故黄長Y先生1周忌追慕文化行事」がもたれ、命日の10日には「ヨイド63ビル」で遺族主催(喪主は養女の金スクヒャン氏)の追悼式がもたれる。そこにも多くの著名人が名を連ねるだろう。
 6日の「故黄長Y先生1周忌追慕文化行事」では、オ・ユンジン予備役将軍、グォン・ヨンヘ元国防長官、チュ・ソンエ長老会神学大名誉教授、パク・グァンヨン前国会議長、キム・ヨンスク北朝鮮民主化委員会副委員長などが黄先生を偲んで思いを語った。
 オ・ユンジン予備役将軍は、黄長Y先生の強い意志を崇敬していたと明らかにし、「過去10年間の左派政権によって格子のない監獄での生活を強いられた時、外国への亡命も勧めたが、先生は『私の祖国は韓国だ。他国に亡命するつもりだったなら、脱北していなかっただろう』と答えた」と述べた。また「体調が悪化し病院への入院を勧めた事もある。しかし、先生は病気でベッドで横たわって死ぬよりも(金正日が送った北朝鮮工作員)ナイフで斬られて死ぬほうが光栄なことと言って拒否した」と回顧した。
 グォン・ヨンヘ元国防長官は「われわれは、北朝鮮の民主化と統一のために黄長Y先生の意志を再確認する場に参加した。先生は韓国で信念と哲学的思想で生きられた。私たちは先生の志に沿って、祖国の神聖な課題を成就しなければならない」と強調した。
 黄委員長の親友だったチュ・ソンエ長老会神学大名誉教授は、2003年に黄委員長がジュ教授に送った手紙を追悼の辞の代わりに朗読した。
 パク・グァンヨン前国会議長は、黄委員長の遺志を継ぐ事を誓った。「今、われわれは黄先生と話す事が出来ないが、先生の夢を知っている。その夢は、北朝鮮民主化と7千万同胞の統一です。黄先生、北朝鮮民主化と統一のその日まで、私たちを導いてほしい。大韓民国はあなたを忘れない」と述べた。
 脱北者代表のキム・ヨンスク北朝鮮民主化委員会副委員長は、「黄先生は90歳を超える往生をされると思っていた。何故、こんなにも早く去ってしまわれたのか。先生は贅沢をするために韓国にやって来られたのではない。生前に著書で私たちの進路を示して下さったが、今後も私たちの灯台になるだろう」と話した(デイリーNK)。

1、黄元書記の功績

 生前、黄元書記と哲学的価値、北朝鮮民主化運動の信念を共有した3人の弟子といわれている孫光柱(ソン・グァンジュ)京畿開発研究院選任研究委員、金・ウォンシク国家安保戦略研究所研究委員、金・ヨンファン北朝鮮民主化ネットワーク研究委員は、最近発刊された外交・安保専門紙NKビジョン10月号(通巻28号)で「黄長Y先生逝去1周期:彼が残した遺産と課題」とのテーマで座談会を行った。
 3氏は黄元書記の最も大きな業績として、北朝鮮と統一問題に対して明確で一貫した戦略を樹立したことをあげた。
 孫研究委員は「黄先生は北朝鮮の真実と虚偽を明快にし、南北間矛盾が資本主義対社会主義間の矛盾でなく、自由民主主義対全体主義間の矛盾だと指摘した」と語った。
 金・ウォンシク研究委員は「黄先生の最大の業績は、北朝鮮ないし統一問題を民主主義発展の観点で解明したことだ。先生は著書『民主主義政治哲学』を通じて、現時代の基本趨勢が世界化であり、その基本課題は民主化であるとの命題を提示した。民族問題の枠組みを越えて北朝鮮、統一問題を世界の民主化過程、民主主義発展過程の一環と解釈したことが私たちに与えた理論的な寄与だ」と評価した。また「先生は、北朝鮮を民主化し北朝鮮人民を救援することの意味が何なのか、また韓国で個人中心の民主主義の限界を克服し韓国の民主主義を深化させ発展させる方法は何なのか、この過程でわれわれが世界の民主化にどう寄与すべきなのかを絶えず考えさせた」とその業績を賛えた。
 金ヨンファン研究委員は「北朝鮮を研究する学者の場合、北朝鮮問題に対する戦略と解決法において多種多様だ。しかし先生は北朝鮮民主化に関する方向と戦略について一貫した明確なものを持っていた。北朝鮮民主化運動の基本路線を明確にした意味は大きい」と評価した。
 生前、黄元書記は北朝鮮の民主化のためには韓国だけでなく中国など国際社会の協力が重要だと強調していた。2010年6月に開かれた大学生セミナーでは「北朝鮮が中国式改革開放へ進むことが民主化への第一歩である。そうなれば金正日集団を除去できるだろう。核兵器で国際社会を威嚇する北朝鮮政権の体制変化なしでは朝鮮半島の安定はありえないということを世界に知らせるべきだ」と強調していた。
 この発言について金・ヨンファン研究委員は「現実に中国は北朝鮮に最も影響を与えている。だからこそ、われわれが最も積極的に関心を持たなければならない国は中国だ」と指摘した。
 黄元書記が中国の役割に関心を持った理由に対して金・ウォンシク氏は「黄先生は、北朝鮮問題解決を世界民主化過程の一つの環と考えられた。北朝鮮問題を解決する過程で米国、中国の協力を勝ち取り、これを通じて米中間の協力構図を作り出すことが東北アジア地域の平和と安定、ひいては世界民主化に寄与する重要な道筋になると考えられた」と語った。
 孫研究委員は米国の対北朝鮮政策と関連して「米国の対北朝鮮政策の80%が核問題だが、これは北朝鮮体制が本質的に変わらない限り解決し難い。北朝鮮問題では『改革・開放』と『人権問題』に80%の比重を置くべきだ」と指摘し、北朝鮮人権問題の解決を北朝鮮民主化の中心に据えた黄元書記の方向性を評価した(デイリーNK)。
 黄元書記の残した著作物や講演活動は彼の重要な功績だ。しかし彼の最大の功績は彼の起こした「勇気ある行動」にある。もちろんその勇気の代価は、家族、親族、弟子たちの犠牲というあまりにも大きいものであった。
 こうした犠牲を伴った「勇気」に対して非難する人も多い。しかしこの犠牲は、金正日政権の狂気がもたらしたものであり、黄元書記が望んだものではない。この「犠牲」には直接触れなかったが、黄元書記が口にしていた「ことば」は、「金大中政権の登場は予測できなかった。太陽政策がなかったならば、少なくとも5年で北朝鮮は崩壊していた。また韓国がここまで北朝鮮に思想的に侵されているとは知らなかった。それらは私の最大の判断ミスであり誤算であった」というものであった。
 しかしこの犠牲のもとにわれわれは北朝鮮の真実を手にすることができた。
 黄元書記が韓国に亡命する以前、韓国の北朝鮮研究は、現実離れしたものが多かった。ある人は、極端に北朝鮮を叩き、ある人は北朝鮮を理想の社会主義国のように主張した。
 日本においても、北朝鮮の独裁体制がいかなるものであるのか、金正日がいかなる人物であるのか、主体(チュチェ思想)なるものがいかにして作り出されたものなのかなど、その真実を正確に把握することはほとんど出来なかった。多くの研究者は、労働新聞などのプロパガンダ新聞や北朝鮮の著作物から推察するのがせいぜいであった。だからこそ北朝鮮が日本人を拉致したなどと主張しても信じる人はほとんどいなかったのである。そこには朝鮮総連が浸透させた「韓国は独裁国家、北朝鮮は社会主義の模範国」との先入観が根深く尾を引いていた。
 われわれ在日同胞、特に朝鮮総連の影響下にあった在日朝鮮人は、それよりもひどい状態であった。一部で流れた1995年前後の北朝鮮の飢餓報道も「敵の謀略情報」などといって信じようとせず、朝鮮総連にいたっては、その真実を伝えようとした人たちを暴力で押さえつけようとした。RENKの集会などを襲い警察の捜査を受ける羽目になったのがその典型的例である。
 しかし1997年2月、黄元書記が韓国に亡命した後、彼の口から北朝鮮の真実が語られることによって、北朝鮮幻想は一気に崩れ去った。この衝撃から逃れるために北朝鮮当局と朝鮮総連は、彼に対するあらゆる誹謗中傷を行なった。だがその流れを食い止めることは出来なかった。朝鮮総連の衰退はここから始まったといっても過言ではない。この流れは金正日の「拉致謝罪」によって決定的となった。

2、黄元書記を苦しめた「太陽政策」

 黄元書記は「韓国の同胞たちと力を合わせ、金正日政権を排除しなければならない(回顧録改訂版・2006年)」という覚悟で、1997年2月に韓国亡命を敢行した。当初日本を経由しての韓国亡命を考えていたのだが、情報が漏洩し中国経由の亡命となったとの情報もある。
 ところが翌年2月(1998年)には「太陽政策」を掲げた金大中(キム・デジュン)政権が発足し、壁として立ちはだかり、その思いを成し遂げることはできなかった。
 金大中政権は、身辺警護との名目で国家情報院が管理する「安家」に軟禁し、黄元書記の行動を制限しただけでなく、黄元書記が彼の支持者と面談する状況を監視カメラと盗聴で詳細に把握しようとした。私(朴斗鎮)が「安家」で黄元書記と会う時は何時も筆談だった。黄元書記が金大中に対して「あのようにずるがしこい人物は珍しい」と語っていたことを記憶している。
 その後、親北朝鮮政権が10年にわたって続き、黄元書記は苦しめられた。事実上の軟禁生活を強いられた黄元書記は「自宅前の路地を100メートルでもいいから、他人の目を気にせずに歩けたらうれしい」などと語っていたという。
 海外への渡航も禁じられた。米国側の圧力で2003年10月にやっと訪米が許可されたが、日本への訪問も望んでいた。しかし韓国の親北朝鮮政権と日本の「日朝国交正常化促進勢力」によっていつも妨害され、2010年4月にやっと訪日が実現した。だがこの訪日は、黄元書記の思いとはかけ離れたものであった。彼がほとんど情報を持たない「拉致問題」が中心テーマだったからだ。そうしたことから黄元書記の講演を聴いた人からは「失望」の声が聞かれた。またそれをもって黄元書記の功績を過小評価する人たちもいる。
 完全に隠れて暮らすかのような生活を続けながらも、黄元書記は金正日政権と太陽政策に対する批判をやめなかった。黄元書記は「太陽政策は北朝鮮の人民をさらに大きな苦痛へと追い込み、金正日を生き返らせるだけの反逆政策だ」などとつねづね語っていた。2001年には『闇の肩を持つ太陽は闇を照らすことはできない』と題する著書も執筆した。「回顧録改訂版(2006年)」では「民族の反逆者(金正日)と民族共助を行うなど話にならない」「金正日政権に妥協し、協力すること以上に大きな過ちはない。それは単なる過ちではなく犯罪行為だ」と主張した(朝鮮日報2011/10/08)。
 そして黄元書記は親金正日派は親日派より数百倍罪深いと断罪した。
 黄元書記は太陽政策を痛烈に批判する一方、韓国の対北政策のあり方を「敬而遠之(表面では敬うふりをしながら実質は無視をする)」の原則を維持すべきとその方向を示した。
 一方この間、日本の著名な多くの政治家や学者なども黄元書記から貴重な北朝鮮情報と政策的アドバイスを得ていた。だが、それを生かした形跡はない。誠に残念なことである。

3、求心力を失った脱北者

 「従北(北朝鮮に従う)左派と、彼らの機嫌をうかがう勢力に喝を入れる人がいなくなったことがつらい」故黄長Y元朝鮮労働党書記の1周忌(10日)を3日後に控えた7日、脱北者の金・ソンミン自由北朝鮮放送代表は「対北朝鮮政策で原則を守るなどと口にしていたのはいつの話だ。政界や政府の一部はもはや従北左派の言い分に惑わされ、“対北朝鮮政策の柔軟性”などという情けない言葉が聞かれるようになった」と嘆いた。黄元書記は生前、毎週のように自由北朝鮮放送を訪れ、ラジオ番組の収録を行っていた。
 「開かれた北朝鮮放送」の河泰慶(ハ・テギョン)代表は「最近、政府から柔軟性などという言葉が聞かれるようになり、誰もが北朝鮮に惑わされそうな時には、脱北者共同体が中心となって原則を最後まで守らねばならないが、黄元書記のように北朝鮮への理解が深く、老練さを兼ね備えた人物がいないため、それも決して容易ではない」「ファン元書記の死去で脱北者共同体の求心力が失われ、遠心力ばかりが大きくなってしまったようだ」などと語る。金・ソンミン自由北朝鮮放送代表は「生前は厳しい監視を受けてきたため、存在感があまり感じられなかった。しかし実際に亡くなってしまうと、その影響力はあまりにも大きい」と嘆いた(朝鮮日報2011/10/08)。
 事実、この間韓国の脱北者は2万人以上に膨れ上がったが、その組織は未だに政治的影響力が弱い。黄元書記が韓国に撒いた北朝鮮民主化闘争の「種」が花開くか否かはこれからが正念場である。


以上

 
著作権について

COPYRIGHT©Korea International Institute ALLRIGHT REDERVED.
CONTACT: info@koreaii.com