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張成沢粛清と金正恩体制の脆弱性

コリア国際研究所 朴斗鎮
2013.12.26

 北朝鮮が12月12日に特別軍事裁判を開き、金正恩第1書記の義理の叔父で実質ナンバー2だった張成沢(チャン・ソンテク)前国防委副委員長に死刑判決を下し、直ちに死刑を執行した。北朝鮮の朝鮮中央通信は13日、「張成沢に対する朝鮮民主主義人民共和国の国家安全保衛部特別軍事裁判が12月12日に行われた。共和国刑法第60条に基づき死刑に処するとの判決を下し、判決は直ちに執行された」と伝えた。判決文では張氏が代替わりの時期を好機として本性をあらわし始め、指導者の継承問題を妨害する大逆罪を犯したと説明した。また政変を起こすために軍の掌握を画策し、自身の偶像化も図ったと断罪した。
 判決文はまた、「国の重要経済部門を掌握し内閣を無力化させることで、国の経済と人民生活を収拾できない破局へ追い込もうと画策した」と指摘した。石炭など地下資源を無断で売り、羅先経済貿易地域の土地を50年の期限で外国に渡す「売国行為」も躊躇(ちゅうちょ)しなかったと伝えた。
 さらに張氏は2010年にデノミネーション(通貨呼称単位の変更)の責任を問われて処刑された朴南基(パク・ナムギ)元党部長を背後で操った人物だったと指摘した。このほかにも張氏の「不正腐敗」行為を具体的に挙げた。
 この判決文で指摘された罪名は、大きく分けると1)金正恩体制転覆陰謀と反党分派行為、2)金正恩第一書記への不服従と不敬、3)内閣を無力化して.経済事業に与えた打撃と.外貨の無駄遣い、4)賭博や女性関係をはじめとした不正・腐敗などである。
 金正恩は、今回の粛清劇で経済破綻のすべての責任を張成沢におし被せ、自分を大きく見せることで首領独裁体制の立て直しを計ろうとしている。それほど北朝鮮の経済破綻が深刻さを増しているということだ。
 しかしいかなる大義名分を掲げても、義理の叔父をさらし者にして残虐な方法で殺害した汚名から逃れることは出来ない。経済的破綻だけでなく道徳的正当性までも失った金正恩政権の将来は暗い。

1、処刑された北朝鮮の「常識人」張成沢

 粛清処刑された張成沢は、1946年1月22日、咸鏡北道清津市で出生した(韓国資料で一時江原道とされたがその後訂正)。享年67歳である。金日成総合大学卒業後1969年からモスクワに留学した
 12月8日の朝鮮労働党政治局拡大会議ですべての役職を解任されるまでは、朝鮮労働党政治局委員、党中央委員、党行政部長、党中央軍事委員、国防委副委員長、北朝鮮軍大将、国家体育委員会委員長、最高人民会議代議員の肩書きを持っていた。
 妻は金日成の長女で金正日の妹でもある金慶喜(67)であったが、粛清を前にしてすでに離婚したものと思われる。長女張クムソンは、結婚を反対され2006年9月にフランス留学中に自殺した。長兄は張成禹(チャン・ソンウ)次帥(第3軍団長)で2009年8月に死亡、次兄は張成吉(チャン・ソンギル)中将(韓国の少将に該当、軍団政治委員)で2006年7月に死亡した。義理の兄(姉の夫)は全英鎮(ジョン・ヨンジン)キューバ大使で甥の張勇哲はマレーシア大使をしていたが、現在の状況は分からない。
 全英鎮氏の娘は、1977年に韓国に亡命した黄長燁元書記の長男と結婚していたが、亡命があった後に離婚した。

1)金正日時代から警戒されていた張成沢

 張成沢に対する警戒心は金正日時代から続いていた。北朝鮮での数少ない「常識人」であったことと部下に対する面倒見のよさで張成沢の周りには人が集まった。独裁者金正日に対しても他の幹部たちのように卑屈になることは少なかった。金正日ために汚れ役も多くこなした。
 そうした張成沢であったから、金正日の信任も得たが監視対象でもあった。金正日が部長を兼任する組織指導部は、「党の中の党」と言われ、朝鮮労働党の中央機関に所属する幹部を管理・監督したが、張成沢は常時そこからの監視を受けてきた。
 1995年11月に組織指導部第1副部長に就任した後、張成沢自身も組織指導部が党の上に君臨する組織であり、最高指導者の「政治的親衛隊」であることを身をもって経験し、その権力の味も十分に味わった。そして人脈も急拡大させた。
 この時期の張成沢について、彼の傍で仕事をした北朝鮮の脱北高位幹部は、「副部長であったにも関わらず、政治局委員や書記や部長などが彼の前でペコペコしていたのをおぼえている」と語っている。また韓国に亡命した黄長燁元書記も「北朝鮮には優秀な幹部が二人いる。一人は呉克烈(オ・グンヨル)であり、もう一人は張成沢だ」と語っていた。
 しかし2004年に張成沢は金正日総書記の怒りを買い、職務を解任された。その理由は、張成沢人脈の党幹部子女の結婚式が派手に行われたこと、崔竜洙(チェ・リヨンス)人民保安相ら幹部が張成沢勢力に加わっていたなどがあげられた。1978年にも私生活の問題で降仙製鋼所に左遷されたこともあったが、この時は派閥形成の「罪名」ではなかった。
 その後2006年1月に党勤労団体及び首都建設部副部長に復帰した張成沢は、2007年12月には党行政部長に就任し、人民保安部や検察などの司法機関を指揮した。張成沢はその一方で外貨稼ぎや平壌建設も任された。外資導入の成功例としては2008年、携帯電話事業のためのエジプト大手通信会社「オラスコム・テレコム社(ナギブ・サウィリス会長)」との合弁事業(高麗リンク社)をあげられる。中国との合弁では、「光福通り商業センター」「ヘダンファ(はまなす)館」「ヘマジ(太陽迎え)館」など外貨獲得の事業のほとんどは彼が行ったものである。
 張成沢の「常識人」ぶりを示すエピソードとしては、1995年から1998年までの「苦難の行軍」時期の張成沢を知る脱北高官の話がある。彼の話によると、張成沢は、「このままだと国民が死んでいくのに何の手も打てないでいる。何とかしなければならないのに」と涙を流しながら語っていたという。こうした「常識的感覚」が金正日に警戒心を呼び起こさせたのであろう。

2)一方で弾圧の先頭にも立った張成沢

 張成沢は、「常識的感覚」の持ち主たが、権力を傘に人民弾圧の先頭にも立ったこともある。張成沢は金英春国防委員会副委員長(当時参謀総長)と共に、1995年ごろに起こった「第6軍団反乱事件」鎮圧を主導した。第6軍団将校数十名を体育館に集めて銃殺した。
 また、餓死者が続出していた1997年には、農業担当書記であった徐寛熙(ソ・グァンヒ)をアメリカのスパイに仕立て上げ、1万人を処刑し1万5000人を強制収用所に送り込んだ「深化組」事件があったが、それは張成沢が総指揮をとったものである。
 この時、金正日は社会安全部(警察に相当、現在の人民保安部)内に「深化組」という名の捜査組織を創設した。「深化組」とは「住民の経歴、思想調査を深く行う」という意味で、組織は全国数百カ所、捜査員は約8000人にのぼった。権限を与えられた捜査員は党幹部から末端まで政権にとって都合の悪い人物を次々と逮捕し抹殺した。
 最初に逮捕された政権幹部は、文聖述党責任書記であるが党幹部らは震え上がった。文氏はそれまで張成沢氏を監視する立場で、張氏の遊興について金総書記に注進するなどしていた人物だったからだ。、深化組による関係者逮捕は家族や親戚3等親にまで及んだという。こうしたことを振り返ると、今回の張氏処刑は「因果報応」であるともいえよう。

2、金正恩体制の脆弱性がもたらした張成沢粛清

1)金正恩体制の脆弱性

 今回の張成沢粛清激は、金正恩体制の強さからではなく、脆弱性がもたらしたものである。脆弱性が焦りと疑心暗鬼を増幅させ、一日も早い一人独裁への道を選ばせたのだと思われる。
 金正恩体制の脆弱性はまず彼の未熟さと経験不足にある。それはこの体制登場のプロセスを見れば明らかだ
 金正恩は、2008年8月に金正日が病に倒れたことで急きょ後継者に内定された(2009年1月)。この内定は党の正式な会議ではなく「家族会議」のようなところでなされた。その後2011年12月に金正日が急死したしたため、金正恩は十分な帝王学を身につけないまま、20代の若さで最高指導者として君臨することになる。軍最高司令官、党第1書記、国防委員会第1委員長、元帥などの肩書きは功績とは関係なく数ヶ月の間に授けられた。金正日が20年をかけて最高指導者になったのとは対照的である。
 金正恩は最高指導者になったものの、金正日が築き上げた統治機構を使いこなすにはあまりにも未熟であった。叔母の金慶姫が後ろで支えるといっても実務が出来るわけではない。どうしても経験豊かでにらみの利く後見人の力を必要とした。その空白を埋めたのが張成沢である。
 張成沢には40年にわたって養った経験とノウハウがあった。党のさまざまな部署を経験することで、党、軍、政府を動かすポイントを心得ており人脈も備わっていた。またロイヤルフアミリーの権威を使った押さえどころも心得ていた。もちろん軍長老の扱いも心得ていた。
 こうしたことから金正恩は張成沢の助けを借りて統治せざるを得なかった。一説によると初期金正恩の行動はすべて張成沢のプランによっていたとされる。金正恩は張成沢の助けを借り崔龍海を軍総政治局長に据え、軍主導の「先軍政治」を党主導の「先軍政治」へと変え、軍に集中した利権を取り戻していった。もちろんこの過程で張成沢の人脈も拡大した。
 金正恩政権は、彼自身が持つ人事権と張成沢の党人脈、そして上昇をめざす軍若手の支持というトライアングルで政権の安定を構築していった。この過程で金正日が配置した軍における後見人である李英鎬は粛清され、軍首脳は日替わりメニューのように交代させられた。この人事方式は金正日の終身的人事方式とは正反対である。
 しかし、この権力バランスはそれぞれの思惑と利害で保たれていたために強固なものではなかった。経済の疲弊と外貨の枯渇が続く中で、利権をめぐる衝突が起きるのは時間の問題だった。それは張成沢粛清処刑という衝撃的な形で現れた。
 金正恩体制の脆弱性は、権力構造の脆弱性だけではない。その家族関係の中にも存在する。特に白頭の血筋、革命の血筋で神格化する上で障害となっているのが在日出身の母親高英姫の存在である。金正恩は母親問題で相当のコンプレックスを持っている。
 高英姫の父親は高ギョンテクと言い朝鮮半島最南端の済州島出身の人物である。戦前は日本軍関係に衣服を納める広田製縫所で働き、戦後は密航船で密入国者を運ぶビジネスをしていたという。高ギョンテクはこのことで逮捕され、日本からの強制退去を命じられ退去先として北朝鮮を選んだ人物である。北朝鮮にあこがれて帰国した在日朝鮮人ではない。
 このような母親の出自のために、最高指導者となって2年が経過した今もなお母親の偶像化に手をつけられずにいる。これも父親金正日とは全く異なる点である。金正日の母親金正淑は、金日成と共に抗日パルチザンを戦った戦友であったため、その偶像化は金正日が後継者となった時点から大々的に行なわれた。
 金正恩は母親の墓を革命墓の中に造り、限られた人たちには参拝させているが、公開的参拝はいまもってさていない。もしもこの事実が北朝鮮全国民に知れ渡った時、金正恩の正統性と権威は大きく失墜することになる。金正恩が一人独裁を急ぐ理由はここにもある。
 そのほか金正恩体制の脆弱性は、異母兄金正男との確執、親族勢力との疎遠、同世代人脈の欠如、北朝鮮伝統文化に対する認識不足などさまざまな面に見られる。
 こうしたもろもろの脆弱性が、焦りと疑心暗鬼を増幅させ、彼自身の残虐的性格と相まって極めて無慈悲な張成沢粛清処刑をもたらした。米国のジョン・ケリー国務長官も張処刑について「この事件は、金正恩氏自身がいかに政権の維持に不安を抱いているかを示すことにもなった」と語った。

2)疑心暗鬼を呼んだ張成沢の勢力拡大

 張成沢の勢力が拡大しはじめたのは2008年に金正日が脳溢血で倒れた直後からだった。党、軍、政府の全般をコントロールできる人物は張成沢以外いなかったからだ。金正日の妹の金慶喜は、金王朝の血統を受け継ぐ者として、存在感はあったものの実務経験はなく、したがって金正日急死という国家の危機的状況でどのように対処してよいか分からなかった。また金正恩も正式後継者の地位を得ていなかったため権力行使は無理であった。結局この時、張成沢が緊急対策を練り党と国家を管理した。張成沢は金正日の脳溢血による権力の空白を埋めた一等功臣といえる。
 しかしこの時、金正日はほとんど回復不可能のように思えたが奇跡的に回復し、すぐさま後継者選定に入った。張成沢は金正日の心中を察知し、金正恩擁立を進言したと言われれている。
 こうして2009年1月に金正恩は後継者に内定し、2010年9月の朝鮮労働党第3回代表者会で党中央軍事委員会副委員長に選ばれ正式に後継者となった。今回の張成沢の罪名では、この時に拍手をまじめにしなかったことまで上げられている。後継者となった金正恩は、父親から「帝王学」を学ぶが、その時間はあまりにも短かった(2011年12月金正日死亡)。
 金正日亡き後、金正恩は権力を受け継いだものの、何をどう動かしてよいのやら戸惑うばかりだった。金慶喜にも国家全般を動かす能力はなかった。結局それらすべては張成沢の肩にのしかかった。この過程で張成沢は人脈を拡大させ、肥大化した軍の力を削ぎ、軍主導の「先軍政治」を「党主導の先軍政治」へと切り替えていった。
 張成沢は金正恩体制の脆弱性を克服するために勢力拡大を進めたが、この勢力拡大は同時に自身の保身のためでもあった。張成沢は、金正恩政権下では自身が金正日時代の金英柱(金正日の叔父)のポジションにあることから、自身への粛清可能性については最大の警戒心を持って対応していたが、その防御策が人脈の拡大だったのである。自身の人脈が張り巡らされれば金正恩が粛清をしたくとも思いとどまるだろうと考えたのだ。
 張成沢は金正日の死後2012年4月に開かれた第4回党代表者会と最高人民会議では、金正恩を第1書記(党政治局常務委員)、党中央軍事委員長、国防委員会第1委員長に推戴、権力承継を公式完了させる一方で自身の序列も金正日葬儀の時の19位からランクアップさせた。2013年9月の北朝鮮建国65周年には金慶喜を追い越し序列5位にまで駆け上った。こうして金正恩が直接掌握している組織指導部と国家保衛部以外の部署はほぼ張成沢の影響下におかれるようになった。その拠点は自身が部長を勤める「行政部」であった。
 しかしこれは首領独裁下では非常に危険なことである。派閥の形成とみなされれば北朝鮮の最高戒律である「首領の唯一的領導体系確立の10大原則」に抵触するからだ。すなわち反党分子として断罪されることになる。それゆえ張成沢は自身の部下たちには「絶対に張成沢万歳を叫ぶな。叫ぶやつは追放する。いついかなる時でも金正恩万歳だけを叫べ」と強調していたと言われる。しかし、それは思い通りにはならず、結局今回反党反革命分派分子と烙印され国家転覆陰謀行為の罪名まで被せられて処刑されてしまった。最も重要な組織指導部と国家保衛部に人脈を構築する前に金正恩から「先制攻撃」を受けたのが、最大の誤算だったと思われる。

3)芽生え始めた金正恩・金慶姫の疑心暗鬼

 張成沢の勢力拡大は、金正恩の疑心暗鬼を募らせていった。それでなくとも、その都度「忠言」の形をとって金正恩に伝えられる張成沢の言葉は、金正恩の気分を害するもが多かった。こうして張成沢は金正恩の「目の上のタンコブ」となっていった。
 2013年に入って、金正恩の進める平壌リニュアールにますます莫大な費用がつぎ込まれていった。張成沢には金正恩の権威を高めるための莫大な統治資金の獲得がのしかかった。また金正恩第1書記の権威を高めるための平壌リニュアールに必要な資材の確保でも総責任者として奔走しなければならなかった。
 こうした中で、今年に入って国家保衛部との衝突が持ち上がった。張成沢が進めていた外貨獲得プロジェクトの責任者が国家保衛部に拘束されたのである。張成沢は自身の影響力を信じて国家保衛部に圧力をかけた。この衝突から金正恩と張成沢の間に亀裂が入り始め金正恩の疑心暗鬼を芽生えさせることになる。金正恩が直接掌握する組織指導部と国家保衛部が張成沢を探り始めた。
 また昨年末のロケット(長距離ミサイル)発射の成功と今年に入っての第3回核実験成功で気分を高揚させた金正恩が、金正日の戦争挑発をはるかに超える「核先制攻撃」を叫び始めたことも両者の亀裂を深めた。これで北朝鮮と中国との関係は急激に冷え込み、国際的孤立も深まったからだ。またこの挑発過程で開城工団閉鎖が決定されたがそれにも張成沢は異を唱えたようだ。罪状の「最高司令官・金第一書記への不服従」は、この時に張成沢が「意見」を述べたことを指すものと思われる。
 今回の粛清劇で金慶喜の健康状態も大きく影響を与えたと思われる。自身が早期に死亡した時、未熟な金正恩では張成沢を押さえきれないであろうとの考えが金慶喜をして張成沢除去へと走らせた。仲が悪かったとはいえ、長年連れ添った夫を守るという倫理観よりも金王朝を守らなければならないとの使命が勝ったのだろう。そして張成沢粛清にgoサインを出したと思われる。
 労働新聞(電子版)は12月11日、金正恩第1書記が張成沢の粛清を決断したのが、11月末に抗日闘争ゆかりの地である北部の三池淵地区を視察した時だったと示唆する記事を掲載した。韓国政府は金第1書記が三池淵視察をしたとみられる日より前に張氏の失脚を示す情報を入手しており、張氏の粛清方針はそれまでに決まっていた可能性が高い。

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 今回の粛清劇は、破綻する経済と外貨の枯渇による金正恩体制の危機がもたらしたものだ。これは体制の弱さを恐怖政治で対処しようとする性質(タチ)の悪い指導者の典型的な行動だ。これまで一部日本メディアは、金正恩に対して期待を込めて肯定的に見ようとしてきた傾向があった。しかし体制維持のために昨年に17件、今年に入っては40件以上の公開処刑を平然と行ない、義理の叔父までも殺した金正恩の「残虐性」は、そうした期待をすべて裏切った。
 米国のリチャード・アーミテージ元国務副長官は20日「以前から私は北朝鮮問題解決の方法について『政権交代』は正解ではないと信じてきたが、今ではその考えも変わった。北朝鮮問題は『金氏政権』を放置したままではいつまでも解決しない」(朝鮮日報2013/12/25)と語った

以上

 
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