北朝鮮は9月18日、日本人拉致被害者の再調査について「調査は全体で1年程度を目標としており現在はまだ初期段階にある」と伝達してきたという。7月の日朝政府間協議で、初回報告の時期は「夏の終わりから秋の初め」との認識で一致していたはずだが、第1回報告がいつになるかも明示されなかった。
安倍晋三首相は18日夜、北朝鮮の拉致被害者らに対する再調査の報告時期について「北朝鮮は日本に何も言ってきていない状況だ」と述べた。そのうえで首相は「北朝鮮側がしっかりと誠実にこの問題と向き合い、すべてを正直に伝えてくるように、対話と圧力の姿勢で見極めていきたい」と強調した。
1、北朝鮮のサラミ戦術始まる
拉致問題早期解決の緊要性と中韓との対立を意識した外交的狙いから北朝鮮と交渉に入った安倍政権は、交渉の入口でしっかりとした枠組みと出口戦略を組み立てなかったために、早くも北朝鮮のサラミ戦術に遭遇している。
「特別調査員会」の「立ち上げ」だけで、日本側から3つの制裁解除を勝ち取った北朝鮮は、日朝合意の履行で「誠意」を示すのではなく、やはりというか、これまでどおり「人質」を利用した「もぎ取り作戦」に出てきたようだ。
日本が最重要視する拉致被害者問題の解決を優先させるのではなく、いわゆる包括的日本人問題の解決という口実で調査結果を小出しにして対価を得ようとしている。日本側は、拉致被害者や拉致の疑いが濃厚な行方不明者の優先調査を求めているが、北朝鮮側は同時並行だと言って拉致被害者問題を後回しに」しようとしているのだ。
北朝鮮の宋日昊(ソン・イルホ)・朝日国交正常化交渉担当大使は今月、訪朝した金丸信元自民党副総裁の長男、康信氏らと会談し、「拉致被害者の安否情報ばかり求めている」と日本側の姿勢を批判したという(中日新聞 2014年9月13日 )。
それだけではない「本来は制裁事態があってはならない。日本が朝鮮を植民地にしたのだから私たちが制裁をするのであって、日本が朝鮮に制裁をするのは話にならない」(ワイドスクランブル9月16日)とわけのわからない発言で日本側に対して制裁解除を求めた。
北朝鮮は、9月13日発表した国内の「人権状況の報告書」の中でも拉致問題について、「日本の一部勢力は拉致問題を悪用して、人権侵害国家だと責めたてている」と言及した(NHK9月13日 18時58分)。
5月のストックホルム合意時、日本の一部「学者・評論家」はテレビや新聞などで「北朝鮮は態度を改めた。日本の外交的勝利だ」「6カ月で解決する」などと根拠のない楽観論を並び立てていたが、事態はその反対の方向に進もうとしている。
2、ストックホルム合意の弱点を利用する北朝鮮
国家犯罪としての拉致問題と、戦後処理問題としての残留日本人、日本人遺骨問題や1959年以降に北朝鮮に渡った日本人妻問題をごちゃ混ぜにした「日朝ストックホルム合意」が、早くもほころびを見せた格好だ。北朝鮮は「誠意」を示すどころかこれまでのように「人質」を利用した「もぎ取り作戦」に出てきている。米朝の主張をごちゃ混ぜにした2005年9月の「6カ国協議合意」後のやり取りが思い出される。
日本政府が「北朝鮮の本気度は国家保衛部が主導する特別調査委員会の立ち上げに示された」として、「言葉対行動」の取引に応じ3つの制裁を解除したが、このことも北朝鮮に余裕を与えた。朝鮮総連中央会館問題や万景号入港禁止、それに朝鮮総連幹部(副議長以上)の再入国禁止措置、送金額の厳しい制限などで北朝鮮が受けていた圧力に風穴が空き、交渉の主導権は北朝鮮側に移ろうとしている。
北朝鮮側の今回の対応は、「本気度」を示したとして騒がれた「特別調査委員会」が、拉致問題の早期解決のためのものではなく、日本からより多くの見返りを得るための「調査委員会」、「サラミ戦術」用の調査委員会であったことをはからずも示した。
日朝の「ストックホルム合意」(5月29日)と「特別調査委員会」立ち上げ(7月2日)を「日本外交の勝利」などと過大評価した一部の「学者・評論家」たちは、「北朝鮮は拉致を解決済みとした従来の方針を撤回した」と前のめりになり、「今回は拉致問題を解決する本気度がうかがえる。それは『特別調査委員会』に国家保衛部を加え、副部長(ソ・テハ)を委員長に据えたことに示された」と断言した。そしてこの副部長は国防委員会の参与でもあるために金正恩の側近だ。顔ぶれに文句はない。萬額回答だ。第一回目の報告が9月上旬にあるが、その頃には3〜5人の拉致被害者は返してくるだろうなどと騒ぎ立て、そうなれば9月中にも安倍総理の訪朝があるかもしれない、安倍総理は訪朝すべきだとまで喧伝した。しかしそれらは主観的分析であった。
ここまで事態が明白になったにも関わらず、一部の人はいまもなお第1回目の報告が遅れているのは北朝鮮側に問題があるのではなく、日本側に受け入れる準備ができていないためだ、などと北朝鮮を代弁するかのような主張を行っている。
こうした「楽観論」を振りまいた代表的人物としては、拓殖大学特任教授の武貞秀士氏、共同通信編集委員の磐村和哉氏、コリアレポート編集長の辺真一氏を挙げることができる。
しかし、北朝鮮の出方に真っ向から疑問を提起し、「特別調査委員会」は、政治ショーにすぎないと主張していたのは、北朝鮮で工作機関や特殊工作任務に従事していた脱北者たちだった。北朝鮮元工作員の金東植(キム・ドンシク)氏はTBSテレビNスタのインタビューに答えて、次のように言い切った。
「(組織指導部とは違い)実権のない国家保衛部が再調査するというのは、私が見たところゼスチャーだけ、ショーにすぎないと思います」。
このような見解は、特殊機関に従事した脱北者たちの共通認識となっている。統一戦線部で謀略戦を手掛けていた脱北者の張真晟(チャン・ジンソン)氏や、朝鮮労働党調査部の元工作員である金賢姫(キム・ヒョンヒ)氏なども北朝鮮の欺瞞性を指摘していた。筆者も機会あるごとに「特別調査委員会立ち上げ」の過大評価はいけないと主張してきた。
3、「拉致被害者問題」解決優先の原則を崩してはならない
今回の北朝鮮の対応で明確になったのは、「拉致被害者問題は後回しにしよう」との意図を持っているということである。このことは「特別委員会」の4つの分科会が発表された時から危惧されていたことであるが、今回第1回報告と絡んでそれは明確に示された。
正念場の交渉はこれからである。日本側は北朝鮮側のこの思惑を決して許してはならない。北朝鮮側が「8人死亡4人未入境」としている「拉致被害者」の解決をあくまで優先させなければならない。この一線を崩した時、今回の日朝交渉は完全に北朝鮮ペースとなり、日本外交は敗北を喫するだろう。
この原則を貫く上で今後重要なのは、対話を続けても圧力を緩めてはならないということだ。北朝鮮は対話だけで素直に譲歩する相手ではない。譲歩を勝ち取るには圧力が基本とならなければならない。圧力は何も経済制裁だけではない。外交的に孤立させる政治的圧力も制裁だ。それはある面で経済制裁よりももっときつい圧力となる。
北朝鮮は「首領独裁制」という徹底した政治優先国家である。首領の権威が保てなくなった時、国家の維持が危うくなった時、はじめて譲歩する国だ。それは1976年に北朝鮮兵が米兵二人を殺害した「ポプラの木伐採事件」ひとつ見ても明らかだ。この時、米・韓軍が臨戦体制で臨んだからこそ金日成が「謝罪」し譲歩したのである。圧力なくして北朝鮮との交渉で勝利を得ることはできない。それがこれまで北朝鮮の独裁と戦ってきた人たちの教訓である。
しかし日本一国で北朝鮮に政治圧力を加えると言ってもそこには限界がある。拉致問題解決のためにもこれまでどおり国際的連携、特には日米韓の結束が重要だ。日米韓が結束し、中国を味方につけ、ロシアをも拉致問題解決に巻き込んだ時、北朝鮮に対する圧力は倍加する。その時、日本は主導権をとって拉致問題を解決へと進めることができる。
拉致問題が日朝間の問題だからと言って国際協調を軽視すれば北朝鮮に余裕を与えることになる。また日本だけが突出すれば北朝鮮の罠にはまる。安倍首相は、拉致問題解決のためにも日韓、日中首脳会談を急がなければならない。北朝鮮が中国との関係や韓国との関係を改善する前にそれを実現する必要がある。
以上