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北朝鮮の第3回核実験が教える深刻な教訓

コリア国際研究所所長 朴斗鎮

2013.2.21

 北朝鮮は2月12日午前11時57分ごろ、咸鏡北道吉州郡豊渓里付近で核実験を実施した。韓国、日本、米国をはじめとした世界の地震探知施設は、マグニチュード4.9~5.2と推定される核実験によるものと見られる地震波を観測した。
 同日午後3時朝鮮中央通信は、臨時ニュースで核実験の成功を伝え「以前とは異なり爆発力が大きく、小型化、軽量化された原子爆弾を使用し、高い水準で、安全で完璧に進められた今回の核実験は、周囲の生態系環境にいかなる否定的影響も与えなかった」と報じた。
 韓国国防部は、この核実験の地震波がマグニチュード(M )4.9程度で、破壊規模が6~7キロトン、1、2回目より破壊力が増したことが分かったと発表した。2006年の1回目の核実験ではM3.6、破壊力は1キロトン、2009年の2回目の際はM4.5で破壊力は2~6キロトンと推定されていた。
 しかし米シンクタンク、核脅威削減評議会(NTI)は2月19日、この核実験の爆発規模について、2009年の前回実験の2.5倍に相当する12.5キロトン程度だった可能性が高いとの見方を明らかにした。複数の研究者らの計算に基づく推計としている。
 今回の北朝鮮による核実験成功は、韓国、日本、米国にこれまでにない大きな衝撃を与えた。それは北朝鮮の発表通り核爆弾が小型化、軽量化されたなら、昨年12月に発射成功した長距離弾道ミサイル(ロケット)銀河3号と合わせると、米国本土を狙う長距離核弾道ミサイルが現実化しつつあるからだ。
 今回の北朝鮮による核実験と昨年の長距離弾道ミサイルの発射成功は、1993年以降20年にわたる米国の対北朝鮮政策の結果を物語るものである。
 1993年に北朝鮮が核拡散防止条約(NPT)脱退を宣言した際、米国側の首席代表として北朝鮮との協議に当たり、翌94年に「米朝枠組み合意」に署名したガルーチ元米国務次官補も、2月19日ソウル市内で講演し、「包容であれ封鎖であれ、この20年間われわれの政策は北朝鮮による北東アジアの脅威を減らすことに失敗した」と指摘した。
 ガルーチ氏が指摘した「失敗」の要因は何であったのだろうか。さまざまな要因を挙げることができるが、その中でも米国の「初期対応の甘さ」と「韓国の太陽政策」は主要な要因と指摘することができる。

1、米国の認識不足と初期対応の甘さ

 北朝鮮が1993年に核拡散防止条約(NPT)脱退を宣言して核危機を高めた当時、北朝鮮はまだ核爆弾も、長距離弾道ミサイルも保有していなかった。この時に総力を結集し徹底的に圧力を加え兵糧攻めにした上で交渉に臨んでいれば北朝鮮は核を放棄していた可能性が高かった。
 それは1990年8月2日にイラクがクウェートに侵攻したのを機にイラク空爆(1991年1月17日)から始まった「湾岸戦争(Gulf War)」が、ベルリンの壁崩壊による激震と重なることで北朝鮮に大きな恐怖を与えていたからである。
 しかし現在北朝鮮は3度目の核実験を行い、長距離弾道ミサイルに核弾頭を装着する段階にまで至った。韓国と日本は核ミサイルの標的となり、米国にとっても北朝鮮の核は直接の脅威となった。
 この事態に至った背景には、北朝鮮の核保有意志を過小評価した米国の安易な認識、一貫性のないクリントン、ブッシュ政権の対北朝鮮政策、北朝鮮核の深刻性を看過し対価を与えれば核を放棄させることができると考えたた韓国の「太陽政策」などがある。こうした政策ミスの連鎖によって北朝鮮が核武装する時間と環境を獲得したと言っても過言ではない。
 一連の政策ミスの中でまず指摘しなければならないのが、米国の初期対応の甘さである。

ジュネーブ「枠組み合意」に至るまで

 北朝鮮は、1985年12月12日にNPT条約(核兵器不拡散条約)に調印することと引き換えにソ連から高出力原子力発電所4基(チェルノブイリ型軽水炉)の支援を受け、1987年に5MWの小型原子炉を完成、10月から運転を始めた。
 ところが1989年9月19日、フランスの地球 観測衛星「SPOT」が800Kmの上空で撮影した写真を分析した結果、1986年以降3年間でとてつもない施設が寧辺に建設されたことを確認する。50MW200MW級の新原子炉が新設中にあり、煙突3つがそびえたつ核燃料再処理施設が建設中にあった。
 旧ソ連は急きょ約束していた原子力発電所の建設契約を取消し、米国はKH-11衛星による北朝鮮に対する偵察活動を強化した。その結果、北朝鮮が申告していない2つの未申告核貯蔵施設が確認された。写真判読の結果はIAEAに伝達され、速やかな「核安全協定」への加入を北朝鮮に促すことになった。北朝鮮はこの時までNPT条約後1年6ヶ月内に必ず加入しなければならない「核安全協定」には調印ぜず、ズルズルと時間稼ぎを行なっていたが、ついに1992年1月30日にはそれに調印せざる得なくなった。
 IAEAは1992年6月から93年2月まで特定査察(ad hoc inspection)を実施。北朝鮮の核疑惑を解消するために実験用原子炉の燃料棒放射化学実験室(使用した廃燃料の再処理施設)核廃棄物貯蔵施設(未申告の2施設)など3つの施設を必ず査察しなければならないと主張した。
 1993年2月25日、IAEAはこの貯蔵施設の特別査察(special inspection)を北朝鮮に要求した。すると北朝鮮は「軍事施設」だと言い張り、ついにNPT脱退(3月12日)を宣言したのである。ここから北朝鮮核問題が国際問題として顕在化することとなる。
 当時弱体化していた北朝鮮を前にして、外交交渉で北朝鮮を説得できると考えた米国は、北朝鮮との二国間協議を受け入れることにし、1993年6月11日、米朝共同声明を発表した。この共同声明には米国が核兵器を含む武力を使用せず、威嚇も行なわないことを保証する一方、北朝鮮がNPT脱退の発効を停止(suspend)することなどが明記された。北朝鮮は、「この合意文書が、交渉相手としての政治的な正当性を授与するという理由から、重要な政治シンボルと高く評価した」とされる。
 その後、交渉がこじれると金日成は1994年、生前最後の新年の辞で「核疑惑は米国の捏造」としたのに続き、4月16日にはワシントンタイムス記者団に「私たちがこれまで核兵器を作る必要もなく、また作る能力も無いということを明らかにしたのは一度や二度だけではない」と言明、世界と米国を欺瞞した。そして1994年6月13日、北朝鮮外務省は声明を発表し「IAEAからの脱退」を通告した。
 これに対してクリントン政権は北朝鮮の核施設爆撃計画を樹立するも、金泳三大統領の反対や想定される人的被害の大きさからこれを断念し一転対話に転じた。そしてお人好しのカーター前米大統領を北朝鮮に送り込んだ(6.15~6.18)。カーターは金日成と会談し、lAEA査察官残留、核施設の監視装備を稼動し続けることを許可、南北首脳会談の提議などで北朝鮮側と合意した。

ジュネーブ「枠組み合意」以降

 1994年年7月~9月、米・朝は高官協議を開催(ジュネーブ)した。金日成の死亡で一時中断されたものの10月に再開。10月21日に「ジュネーブ基本合意書(枠組み合意)」に調印した。合意内容は50MW、200…W黒鉛減速炉の建設中止5MW実験原子炉の稼動中止放射科学実験所及び、その他関連施設の凍結2000万KW軽水炉発電所の建設といったものだった。この合意によって北朝鮮は九死に一生を得ることになる。軽水炉建設は、総所要予算46億ドル中、韓国が70%の32億ドル、日本が10億ドルを、米国は年間50万トンの重油供給をすることにし、契約締結の手続きを踏んだ後、97年8月に工事に着手した。
 この時米国は、絶対的カリスマである金日成が死亡したことを過大評価し、交渉を続ければ間もなく北朝鮮は崩壊すると判断したのである。しかし、北朝鮮政権は1980年代半ば以降すでに金正日の手にあり、その基盤は強固に構築されていた。
 北朝鮮は経済難にもかかわらず、ジュネーブ合意後も密かに核とミサイルにヒト、モノ、カネを集中的に投資し開発を続けていた。1990年代半ばにはほぼ初歩的核爆弾の開発に成功したと見られる。それはこの頃、外貨集めにのためにイタリアに来ていた張成沢が、核爆弾一基分はイタリアの実業家に鉱山の権利を売り渡し調達したが後一基分の資金が足りないとしていたことからも推察される。ウラン濃縮についてもこの頃から本格化している。1997年に韓国に亡命した黄長燁朝鮮労働党元書記(当時国際担当)は、当時の軍需担当秘書全秉浩からプルトニュームの入手を頼まれてたが、その直後に必要なくなったとされた事実を明らかにしている。この時期はパキスタンのカーン博士らが北朝鮮、イラン、リビアにウラン濃縮技術を移転させた時期と符合する(1997年、北朝鮮への供与をパキスタン治安当局が摘発)。
 その後米国は、1998年の「テポドン-1」発射をキッカケに、「ペリープロセス」による「宥和政策」へと大きく舵を切ることになる。この包容政策は、金大中の「太陽政策」と相まって2000年10月にはオルブライト国務長官の訪朝と趙明禄訪米を実現させ、米朝共同コミュニケを発表するなど米朝国交正常化を一歩手前にまで前進させた。この時金正日は勝利の凱歌をあげたという。
 しかしブッシュ政権発足後、2002年に高濃縮ウラン製造疑惑が暴露されKEDO理事会で軽水炉の提供は中断決議(11月14日)されたことで「米朝枠組み合意」は白紙化された。1994年から8年間、米国は北朝鮮にまんまと騙されていたことになる。
 その後北朝鮮の核問題は「6ヵ国協議」に移行することとなったが、それもイラク、アフガン対テロ戦争の長期化と米国の経済的弱体化や中国の台頭などによって当初北朝鮮に示していたCVID(完全で検証可能かつ後戻りできない核の放棄)原則はいつの間にか消え去り、「非核化」問題はプルトニューム生産の「無能力化(生産の凍結)」問題に変質し、その交渉の裏で高濃縮ウラン問題はうやむやにされた。
 6ヵ国協議期間、米韓中ロは100万トンあまりの重油を提供し、韓国は毎年食料50万トン、肥料30万トンを北朝鮮に送った。その他、米国は北朝鮮に対してバンコ・デルタ金融制裁の解除、敵性貿易法の解除、テロ支援国指定解除などを贈り物にした。これに対して米国が手にした対価は、老朽化した冷却炉の爆破と1万8000ページの報告書だけだった。
 結局北朝鮮に「食い逃げ」されたまま「6ヵ国協議」は2008年で中断され、今日に至っている。1994年の「ジュュネーブ枠組み合意」以降、北朝鮮が手にした見返りは韓国からだけを見てもほぼ1兆円に達する。
 米国が北朝鮮政権を東欧の社会主義諸国と同じように認識し、北朝鮮に対価物を与えれば核を放棄するだろうと考え、カーターのような甘い宥和主義者を北朝鮮に送り込み、北朝鮮核問題を外交で解決できると判断したのが間違の始まりだったのである。
 生前、黄長燁朝鮮労働党元書記は、米国が1994年の交渉時もう一押し北朝鮮を圧迫していたら、その時点で核問題は解決し、北朝鮮は崩壊へと向かわざるを得なかったのにと悔しがっていた。。

2、核とミサイル開発を助けた金大中・盧武鉉政権の「太陽政策」

 北朝鮮は1989年のベルリンの壁崩壊後に続いた旧ソ連を始めとした東欧社会主義の崩壊と深刻化する経済破綻の中で1990年代初頭、韓国に対しては次々と妥協的対応を行なった。
 南北関係における1991年12月13日調印の「南北基本合意書」(1992年2月19日発効)や「南北非核化共同宣言」(1991年12月31日仮調印1992年1月20日文書交換、2月19日発効発効)などがそれを示すものである。また外交面でも1990年9月の「韓・ソ国交正常化」、1992年8月の「韓・中国交正常化」などが相次ぎ、北朝鮮は外交面でも後退を余儀なくされた。
 こうした失地を埋めるために、北朝鮮は「分断の永久化」につながるとしてあれほど反対していた国連への「南北同時加盟」に同意し、1991年9月17日の第46回国連総会で国連の一員となったのである。
 しかしこの後、韓国は「太陽政策」によって北朝鮮を変化へと向かわせる決定的チャンスを逃すことになる。
 これについて韓国の金滉植(キム・ファンシク)国務総理は、2月14日の国会の対政府質問で、20年間にわたる北朝鮮非核化努力が水の泡になったことを自ら認め次のように語った。
 「その間、対話と制裁のツートラックで北朝鮮の核問題を解決しようと努力してきたが、効果を出せなかったことをはっきりと認識している」「韓国政府の包容政策、強硬政策に関係なく、北朝鮮は自らの戦略と目標を推し進めた。どうすれば悪循環を断ち切ることができるのか、新しい角度で接近する必要がある」と明らかにした。
 金総理の発言には、北朝鮮の核に対する誤った認識と見解、戦略失敗に対する反省と悩みが込められていたという(中央日報2013年02月15日)。
 李秀赫(イ・スヒョク)6カ国協議初代首席代表は「北朝鮮は最初から核を放棄する考えがなかったが、北朝鮮が放棄すると診断したことで処方から間違っていた」と述べた。NPT脱退(93年)-高濃縮ウラン(HEU)プログラム公開(02年)-寧辺原子炉プルトニウム再処理(05年)と、北朝鮮は一貫して核開発を推進してきた。にもかかわらず、05年に訪朝した鄭東泳元統一部長官は、「韓半島の非核化は金日成主席の遺訓」という金正日総書記の発言を鵜呑みにし、宥和政策を続けた。
 こうした韓国政府の政策に対して尹徳敏(ユン・ドクミン)国立外交院教授は「北朝鮮の核意志は明白だったが、見返りを与えれば簡単に解決すると考えたのが過ち」と批判した(中央日報2013年02月15日)。

3、背景に「東アジアでも冷戦が終わった」という誤認識

 1990年代に入って冷戦が終結したとの認識が世界を駆け巡り、東アジアにおいてもヨーロッパ共同体のような「東アジア共同体」が実現できると考える人たちが多くなった。
 韓国においても「冷戦終結」の主張を取り入れる学者や政治家が雨後の竹の子のように頭をもたげた。北朝鮮の本心を知る人たちが「北朝鮮に対する警戒心を怠るな」と主張すると彼らは決まって「冷戦時代の古い思考」「反共時代の色分け論」などと罵倒した。その先頭に立ったのが北朝鮮に対する宥和政策を展開した故金大中元大統領や故盧武鉉元大統領の支持者たちと統合進歩党などの従北勢力だった。
 故金大中氏は大統領就任後の2000年3月、「冷戦終結」の認識のもとにベルリン大学で講演し韓国政府は北朝鮮の経済再建を支援する用意がある、当面の目標は統一よりも冷戦終結と「平和定着」である、北朝鮮は人道的見地から離散家族問題解決に積極的に応じるべきである、北朝鮮は特使交換の提案を受け入れるべきであると述べ太陽政策へと向かった。
 そして彼はその後も経済支援を行なえば北朝鮮は改革開放に向かうと力説し「太陽政策」こそ唯一正しい「対北朝鮮政策」と主張した。
 これに対して金正日は「太陽政策逆利用戦略」で応じ、金大中政権から5億ドルの裏金をせしめて2000年6月に「南北首脳会談」を行い、北朝鮮の「連邦制統一案」をアレンジした「6・15宣言」を金大中に飲ませた。金大中氏はその対価として念願の「ノーベル平和賞」を手にすることになるが、しきりに「自分ひとりもらい金正日総書記に申し訳ない」と吐露していた。その申し訳なささからか、その後金正日総書記を盛んに持ち上げている。
 自殺した故盧武鉉元大統領はそれよりもひどかった。
 最近暴露された2007年10月の「南北首脳会談記録」によると、彼は金正日に対して「私は‘作戦統制権の還収’を南北間の信頼構築で重要な要素であると考えて推進しました」と韓米連合軍司令部解体推進を「報告」し、韓国の安保体制と韓米同盟を弱化させるため国家保安法廃止の推進とNLL(北方限界線)の解消を約束したようである。
 金正日政権は、金大中・盧武鉉政権に至る10年間で、1兆円近い資金と物資を手に入れ、「冷戦終結論」で韓国の安保体制を揺さぶり、10年という時間を稼ぐことで核とミサイルの開発に専念したのである。
 この「太陽政策」の根底に横たわる情勢認識は一言で言って「冷戦は終結し、体制競争で韓国は勝利した」であった。しかしソ連と東欧社会主義の崩壊後、朝鮮半島の情勢はむしろ「冷戦が強化された」のであって「終結された」のではなかった。そのことは長距離核弾頭ミサイル発射成功と第3回核実験成功で見せている北朝鮮の居丈高な「戦争か平和か」の恫喝に示されている。また、この間経済成長に専念し、「覇権」の爪を隠してきた北朝鮮の盟友中国も、2010年の上海万博終了以降、領土的野心を露にし日本に対する挑発を繰り返している。
 2010年2月、故黄長燁朝鮮労働党元書記は次のように語っている。
 「韓半島では今冷戦は終わったのではなく、むしろ強まっています。6・25戦争当時よりもはるかに強まっています。中国という大国を同盟国として持っている北朝鮮が降伏するはずがありません。それなのに冷戦が終わったとして、安逸を貪っている人たちがいますが理解に苦しみます。
 安逸を貪るばかりか、北朝鮮の独裁者を訪ねて行き莫大な外貨を与えて、もう戦争は起こらないと宣言し、韓国国民を武装解除させました。これは話にもならない愚行です」。
 東アジアの冷戦が終結したと錯覚し対北朝鮮政策を展開したことによって、東アジア冷戦の震源地である朝鮮半島の火種は再び燃え広がろうとしている。

以上

 
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