NHKは5月12日14時台で「高裁 朝鮮総連の抗告を退け売却認める決定」との次のような報道を行った。
「競売にかけられた朝鮮総連=在日本朝鮮人総連合会の中央本部の土地と建物について、東京高等裁判所は入札のやり直しを求めた朝鮮総連の抗告を退け、高松市の企業への売却を認める決定を出しました。
今後、判断が覆るのは難しいとみられ、代金が納められれば、この企業が所有者となります。
整理回収機構の申し立てで競売にかけられた東京・千代田区の朝鮮総連中央本部の土地と建物は、高松市の「マルナカホールディングス」が22億1000万円で落札し、東京地方裁判所はことし3月、売却を認める決定を出しました。
朝鮮総連は、「入札をやり直すべきだ」として抗告していましたが、東京高等裁判所は12日、「改めて入札すると3回目となり、さらに時間がかかることになる。前回の入札を基に高松の企業に売却を認めた地裁の判断は正当だ」と指摘して、地裁に続き売却を認める決定を出しました。
朝鮮総連は最高裁判所に抗告することもできますが、事実上判断が覆るのは難しいとみられるほか、今後、定められた期限のうちに代金が納められれば、この企業が所有者となります」
これに対して朝鮮総連は、「不当極まりない決定であり、決して受け入れることはできない。競売手続きのルールを完全に無視した違法で不条理な決定を追認したことは暴挙と言わざるをえない。日本当局は今回の決定により生じる事態のすべての責任を負うべきである」などとするコメントを出した。
このコメントは違法な操作で莫大な借金を背負った当事者が出すコメントではない。恥を知るならば、このようなコメントは出せなかっただろう。
この判決で、朝鮮総連の中央会館は、少なくとも一旦は他人名義に渡ることになる。落ち目の朝鮮総連に拍車がかかることは間違いない。
こうした状況を受けて、在日朝鮮人だけでなく日本社会もこの事態に至った真実を知ることは重要だ。
以下では、この結果をもたらし、今もその責任から逃れている朝鮮総連の「許宗満体制」の罪科を明らかにする一助として、中央公論2007年11月号に寄稿した朴斗鎮の論考を掲載する。
朝鮮総連を財政破綻させた許宗萬体制の大罪
中央本部の売買にからむ事件で、にわかに注目を集めた朝鮮総連の財政状況。その債務は627億円にのぼる。原因は明らかだ。金正日への忠誠と献金しか頭にない、現執行部が元凶なのである。
「中央公論」2007年11月号
コリア国際研究所 所長 朴斗鎮
在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の財政破綻を象徴する中央本部の「土地・建物取引事件」は、検察当局の捜査で緒方重威(73)元公安調査庁長官らの「詐欺事件」として処理された。異例の速さでの決着で、連日のように騒いでいた報道機関も今は静かだ。
だが、取引成立前に4億8000万円もの大金を「買い手」側に支払い、売却代金も受け取らず所有権を移転した朝鮮総連の異常な行為や、詐欺で立件された後も「総連に取り込まれたとは思っていない」と話す緒方元長官らの奇妙な対応は謎を残したままだ。
ただ在日朝鮮人にとって重要なのは、なぜ緒方元長官が「在日の権利擁護」を唐突に叫び、この「取引」を行なったかを究明することではない。627億円もの金の行方と、この事態にまで至らしめた責任の所在を究明することである。
しかし朝鮮総連中央は、整理回収機構(RCC)に対する糾弾や、「弾圧反対闘争」で同胞の目をそらし、事態の究明と責任所在の追求を何としてでも阻止しようとしている。
執行部に突きつけられたある「意見書」
こうしたさ中、朝鮮総連中央執行部が恐れていた事態が発生した。「総連中央会館の売買事態に対するわれわれの意見」という「文書」が7月9日と23日付の2回にわたって朝鮮総連中央に伝達されたのだ。この文書に名を連ねている主要人物はいずれも朝鮮総連の元老級で、財務に精通した人たちだ。そこには朝鮮総連結成初期から、差別と貧困の解消を目指して活動してきた自負心と、中央執行部に対する憤りが綴られていた。
この意見書は書き出しで「総連中央会館の売買事態が『勝利と団結の大会』である21全大会の15日後に表面化した後、われわれの衝撃と不安は、無くなるどころか日ごとに増大しています(中略)。
今回の事態の当事者である許宗萬責任副議長が、内部においてさえ責任所在に対する解明をせず、引き続き自身が主導して立てた諸措置が正しかったと主張していることに対しては、納得できないものがあります」と指摘している。
彼らのこの思いは、同じころに在日本朝鮮青年同盟の活動に携わり、朝鮮大学校卒業後、1968年から75年まで朝鮮大学校政治経済学部で教鞭をとった筆者には痛いほどよく分る。
それは、「力のある人は力を、知識のある人は知識を、お金のある人はお金を」とのスローガンで営々と築き上げてきた同胞の血と汗の結晶が、無残な形で崩れていくことに対する悔しさと憤りである。
また今回の事態で多くの朝鮮総連関係者がショックを受けているのは、所定の手続きがないまま本丸を勝手に明け渡そうとしたことだけではない。こともあろうに元公安調査庁長官と取引を行ったことも関係している。「意見書」でも、「われわれが今回の中央会館売買事態と関係して最も疑問に思っているのは、元公安調査庁長官を売買相手として選んでいることです」と指摘している。
これまでも朝鮮総連中央に対する意見書はいくつかあった。主な意見書としては、98年の東京朝鮮中・高級学校新校舎建設時に一部教育関係幹部と学父母が出した「教育内容改善の要望書」、2002年9月の金正日総書記(以下金正日)による「拉致謝罪」後に全国の若手活動家23人(総連、朝青、青商、留学同)が実名入りで出した朝鮮総連の改革を求めた「提起書」、そして4・24教育闘争の場となった「阪神初級学校」売却反対の「提起書」などがあるが、今回の「意見書」のように「許宗萬責任副議長」を名指しで指弾したものは初めてである。
今回の「意見書」は許宗萬責任副議長(以下許宗萬)の責任を具体的事例で指摘し、次のように締めくくっている。
「過去の経験から見て、許宗萬執行部は、われわれの今回の行動に対して、非組織だとかひいては国家情報院の手先だとかのレッテルを貼り排斥しようとするでしょう。その判断は、この意見書を読まれる皆様にお任せします」。
この「意見書」が危惧した通り、朝鮮総連中央は8月3~4日に招集集した「県本部委員長会議」でこの文書を「怪文書」と規定し、幹部内の「一心団結」を訴えた。
しかし朝鮮中央会館売買事件に象徴される朝鮮総連の財政破綻の責任が許宗萬にあることを否定する人はほとんどいない。今回の事件も人事、財政を牛耳る彼が、企画・演出を担ったと信じられている。
「意見書」が指摘するまでもなく、いまや許宗萬体制と朝鮮総連財政破綻の因果関係に疑問を挟む人はいない。
では朝鮮総連を財政破綻へと追いやったこの「許宗萬体制」はどのようにして生まれ確立していったのだろうか。
「9月マルスム」により資金調達集団に
「許宗萬体制」が確立したのは、1986年9月に開かれた朝鮮総連第14回大会である。この大会は、同年9月に金正日(当時書記)が下した「9月マルスム」の指示を具体化するために開かれた。そして朝鮮総連はそれまでの「金日成―韓徳銖体制」から「金正日―許宗萬体制」へと移行していくこととなる。
また86年は軍事衛星で北朝鮮の核施設が暴かれ核問題がクローズアップされた年でもあるが、北朝鮮の核開発本格化が「許宗萬体制」の登場と無関係とは言い切れない。
この前年、故金日成主席は一般同胞を「基本群衆」としてきた朝鮮総連の方針を改め、「商工人」を「基本群衆」とする「教示」を与えていたが、それを金正日流にアレンジしたのが「9月マルスム」である。
「9月マルスム」は、寄付金の減少傾向に対応するために経済的自立を図れという内容であったが、その真の狙いは朝鮮総連を「集金マシーン」に作り変えることにあった。それは許宗萬の副議長への抜擢と大物商工人2人を副議長に据える人事として示された。
この大会では、人事改変で自らの地位に危険を感じた当時の議長韓徳銖(故人)が、大会途中で討論者を押しのけ「私が議長だ!」と叫んだという有名なエピソードが残されている。
これをきっかけに、朝鮮総連にわずかに残っていた理念団体、権利擁護団体としての面影はうすれていった。理念実現の手段であった「資金調達」が目的となったからである。そして朝鮮総連は朝銀信用組合(朝銀)をテコにしてパチンコ業と不動産業、その中でも利幅の大きい「地上げ業」に突進していった。
これは実質的な路線転換であった。67年の第8回大会で「金日成絶対化」を打ち出し、在日朝鮮人の組織を金日成の組織に改変した朝鮮総連指導部は、86年時点から朝鮮総連を金正日の私組織に作り変えていったのである。その結果、朝鮮総連が一般同胞から一段と乖離したことは言うまでもない。
このように朝鮮総連にとって86年は特記すべき年であった。そこには北朝鮮における権力構造の変化が関係している。
74年に後継者と確定した金正日は、その6年後の朝鮮労働党第六回大会で内外にそれを示した。74年以降、義弟の張成沢(朝鮮労働党副部長)を責任者として進めた「3大革命小組」は、金正日を後継者にすることに反対した勢力を駆逐し、朝鮮労働党内における金正日の地位を確固たるものとしたからだ。そして85年には「金日成・金正日体制」から「金日成・金正日並列体制」へと移行することとなる。この権力構造の変化がなければ、金日成との絆が強かった韓徳銖を権力の座から追い落とすのは難しかったに違いない。
許宗萬はその後、93年に責任副議長に昇格し、側近の康永官も財政局長に昇進する。
ちなみに朝鮮総連中央での指導的役職は、王が臣下に役職を授けるように金正日が与えるものとなっている。金正日が許宗萬に与えた「責任副議長」という地位は、筆頭副議長という意味ではなく、「実質的に責任を持つ副議長=実質トップ」ということである。これは、後述する2000年3月1日の「金正日マルスム」の中でも再度明確にされた。
では、金正日が許宗萬に目を付けて彼を自分の忠実な臣下に仕上げていったのはいつごろからなのか。それは1974年に金正日が後継者として確定した後の77年ごろであったと思われる。
すなわち77年5月11日に北朝鮮代議員グループ代表団の一員として初訪日した金正日の側近金容淳(後の書記)を、当時国際局副局長だった許宗萬が接待したのがきっかけとなったようだ。それはその3年後の80年11月に開かれた朝鮮総連第12回大会で彼が事務総局副総局長に抜擢され、この時から「学習組」を掌握し始めたこととも符合する。
金容淳に見初められ、金正日とつながりを持つまでの許宗萬は、朝鮮総連中枢の権力構造から遠く離れたポジションにいた。
彼は65年アルジェで開かれる予定であった「世界青年学生平和友好祭(第一回は47年プラハ)」に在日本朝鮮青年同盟代表団長(当時在日本朝鮮青年同盟中央の組織部長)として参加後、北朝鮮に帰国する運命にあったが、この大会が中止となったため、日本で引き続き活動することとなり、外務部(国際局の前身)指導員に配属されたのである。
その後、副部長に昇進し、一時朝鮮総連の実力者として君臨した金炳植の対外連絡係などを務めていた。彼の政財界人脈はこのころから培われたと思われる。
朝鮮総連の権力中枢から離れていた彼に転機をもたらしたのは金炳植の失脚であり、金容淳に対する「接近」であったと推察される。
彼と金正日のつながりは2000年3月1日に金正日が彼に与えた次の言葉の中に示されている。
「いま総連は、議長同志が高齢のうえ病に伏しており、徐萬述第一副議長同志も70歳を超えているので、実際に仕事を出来るのは責任副議長だけです。(中略)
総連事業は韓徳銖議長同志と徐萬述第一副議長同志を立てながら、責任副議長が実権を握り責任を持って組織展開していかなければなりません。(中略)
私は許宗萬責任副議長を変わりなく信じます。責任副議長は私が既に前々から苦労して育てた総連の指導核心です」。
同胞からいくらバッシングを受けても、許宗萬体制が続く秘密はこの「お墨付き」にある。このお墨付きは「外貨追求」に走る金正日に捧げた莫大な献金額の代価でもあった。それは、05年1月の「労働英雄称号」授与としても示された。
金正日が見限らない限り許宗萬体制は続く。ここに朝鮮総連の最大の悲劇が存在する。
ゴルフ場開発失敗で残った巨額の負債
金正日の利益だけを代弁する許宗萬体制によって、在日朝鮮人の血と汗の結晶である朝鮮総連の資産は次々と消えていった。関東地域だけを見ても、幹部養成機関であった総連中央学院、総連関東学院、そして東京都本部、西東京本部、東京第7、第8初級学校、朝鮮新報社、朝鮮問題研究所、朝日輸出入商社、大栄電子、ソナム(松ノ木)荘など数え上げればきりがない。金正日が許宗萬を「変わりなく信じる」理由がここにある。
金正日への献金を求めた「9月マルスム」以降、朝鮮総連はパチンコ業と不動産業に莫大な資金投入を行い、それに対応する会社を次々と立ち上げた。パチンコは「インターナショナル企画(社長-鄭春植)」、不動産は「プロスパー開発(社長-康ボング)」といったように。勿論この資金を供給するテコは、全国38の朝銀信用組合であった。
この時パチンコ部門の責任者となったのが当時財政局副部長であった韓光煕だ。彼は「わが朝鮮総連の罪と罰」(文春文庫)の中で次のように述べている。
「パチンコをやりましょうと言ったのは私だ。(中略)『それがいい』手を打ってうなずいたのは、許宗萬だった」(200ページ)
こうして「インターナショナル企画」の下に山形県中心に国際と名のつくパチンコ店が展開される。そしてパチンコ店の拠点として莫大な資金を投入して東京・中野新橋に「パーラーエクセレ」という店を開店させた。朝鮮総連中央のパチンコ店数は20店舗に及び、県本部や朝鮮大学校経営の店舗を合わせると40数店舗に膨らんだ。また上野に大栄電子(社長-金チス)を設立する一方、パチンコ機械の販売会社も立ち上げ、パチンコ機械メーカーへの参入も夢見た。
こうした企業に朝鮮大学校卒業生が投入されたことは言うまでもない。パチンコ業界に朝鮮大学校卒業生が増え始めたのはこの頃からである。それまでは、家業を継ぐとしてもパチンコや不動産、街金融などの職業には就くなと教育されていた。
だがこのパチンコ業界進出の事業はほとんど破綻した。パチンコ店も現在は赤字続きで閉店する店が相次いでいる。
破綻の原因は、素人商法と献金目標達成のための過度な利益追求にあった。傘下のパチンコ店はノルマ達成のため、通常の経営では考えられない暴利を追求した。そればかりか朝銀系ノンバンクへの高利返済という形での「献金」も強いられた。また不祥事があっても警察沙汰にならないという「安心感」が財務の不正を誘発し破綻を促進した。
地上げにも大々的に参入していった。勿論責任者は許宗萬で管理責任者は康永官であった。「関東興業」名義の朝鮮総連資産や朝鮮学校を担保に資金調達を図り、日本の金融・不動産会社やゼネコンを巻き込んでいった。今回の中央会館取引で登場した満井忠男(73)との腐れ縁もこの頃に出来たものだ。
名古屋駅前周辺、大阪吹田市の江坂駅周辺、北九州市小倉の旧市街などが初期の地上げであった(前掲書235ページ)。その後、プロスパー開発の拠点であった埼玉県北浦和駅近くの飲み屋街の地上げも行った。この地上げは完成せず、現在も虫食い状態で残り、数十億円が焦げ付いたままだ。
バブル全盛の時代、朝鮮総連の金儲けは順調に進むかに見えた。含み益は「儲け」として次々と金正日に吸い上げられた。その総額は数千億円ともいわれている。そしてついにお決まりコースのゴルフ場開発に進んだのである。
ゴルフ場開発はすべて失敗に終わった。西の滋賀県石部カントリーの開発、東の山梨県大月西カントリーの開発がそれだ。石部カントリー開発は、京都朝銀信用組合に100億円近い負債を残し、大月西カントリー開発は朝鮮奨学会の新宿ビルディングをも巻き込み東京朝銀に35億円の負債を残した。
石部カントリーの開発での負債は隠されていたため、後に朝銀近畿信用組合の破綻につながる「犯罪的」とも言えるものであった。主導したのはもちろん許宗萬である。この件を許宗萬に持ち込んだのは京都の某暴力団の企業舎弟だったと言われている。
こうして朝鮮総連が認め裁判で確定した朝銀破綻がらみの負債額だけでも627億円に達したのである。中央会館売買事件発覚後、許宗萬執行部は、その責任をすでに故人となったか年老いた数名の商工人に押し付け責任逃れの内部説明会を続けた。こうしたことに対する反発もあって冒頭の「意見書」が伝達されたのである。
「金正日への献金活動」はもう続かない
朝鮮総連の財政破綻は、そのまま朝銀の破綻である。この破綻は許宗萬が朝銀を掌握したときから始まる。
彼は14回大会直後、朝鮮総連中央に「経済」部門を統括する「財政委員会」なる組織を立ち上げた。当初のメンバーは、当時財政局長の崔秉祚、副局長の康永官など財政局中心の十数名であった。
それまで朝鮮総連からの統制が緩やかだった朝銀は、「財政委員会」のもとで在日本朝鮮信用組合協会(朝信協、1953年設立2002年3月解散)を通じた中央集権的組織に改変され、許宗萬体制へ直結されることになる。そして共同計算センターの設立(1986年)ともあいまって朝鮮総連中央を本店とする「全国的信用組合体制」が出来上がったのである。
この中央集権化は、朝鮮労働党日本支部である非公然組織「学習組」を通じて行われた。各信用組合内に組織された「学習組」の責任者に決定権を与え、彼らを許宗萬が掌握することで本来都道府県別でなければならない信用組合を中央集権化したのである。
この仕組みが司法の場で始めて明らかにされたのが、東明商事の朴日好社長が朝銀愛知に対して起こした17億5000万円の返還要求訴訟においてである。この事件は朝銀愛知にいた許宗萬の腹心崔宗哲(当時副理事長、金日成勲章受章)が起こしたものだ。
52年の同和信用組合の設立から在日朝鮮人の努力で営々と築いてきた朝銀は、最盛期には(90年代初)は38都府県38組合、組合員10万人、預金総額2兆5000億円、役職員総数は3500人の金融機関となった。しかし日本のバブルの崩壊と金正日の私物化、そして彼に献金を続ける許宗萬体制の乱脈経営によって瞬く間に破綻の道をたどることになる。
それは97年の朝銀大阪の破綻から始まり、99年の東京をはじめとした13朝銀の破綻、2000年の近畿朝銀の二次破綻、2001年の関東朝銀をはじめとした10朝銀の破綻と続き、日本の公的資金約1兆4000億円が投入された。その結果38の朝銀は、ウリ信組、ハナ信組、イオ信組、ミレ信組、京滋信組、兵庫ひまわり信組、朝銀西の7信組に再編された。
この再編過程で許宗萬執行部が画策したのは、再編された朝銀を引き続き「学習組」の統制下に置くことであった。そしてそれを許宗萬が掌握していけば、再び朝銀を「金庫」とした「金正日への献金活動」が可能になると考えたのである。そのためには、なんとしてでも日本人理事長の就任を阻止する必要があった。ここから日本金融当局、特には官邸筋との熾烈な攻防が始まる。
この攻防の様子については、官邸担当の某大手通信社記者が許宗萬に送った次のような「通報」の中に記されている。
「官邸は西に行けば行くほど総連中央離れが進んでいると判断しており、そうしたことが態度を強気にしている最大の要因となっている。(中略)
朝鮮人理事長がダメなのは、そうした世論を作りあげることをゆるしたからだ。官邸安倍副長官(当時)の勝ち。特に産経新聞の記事に尽きる。「学習組」の記事。あれで自民の良識派も民主も『このまま放置しておくとまずい』という空気になった」。
許宗萬執行部が画策した「朝銀再支配」の「秘策」は、近畿地域商工人の中央離れと理事長候補の「学習組員露見」によってはかなくも消え去った。
近畿地方の元朝銀理事は次のように吐露した。
「朝銀幹部らが、許宗萬の露骨な人事、上納金、融資強要にどれほど苦悩してきたか。朝銀問題の真の総括なしに総連の改革や再生など到底ありえないと断言できる」。
ミレ、京滋、兵庫ひまわりが、中央の方針を排除して「日本人理事長受け入れ」を決定したのは、ある意味では許宗萬体制に対する「反抗」だったともいえる。これでハナ信組における理事長問題の帰趨も決定した。
朝銀が金融庁の提示した「定款」を受け入れ、朝鮮総連傘下から離脱して共同計算センターを解体したことや、東京と近畿の4信組理事長から「学習組員」が排除され日本人理事長が就任したことは、そのまま中央集権的再支配が不可能になったことを意味する。
また金融自由化や朝銀の仮名口座、借名口座、裏預金などが困難になったことも、朝銀の「集金能力」を大きく低下させ、朝鮮総連の財政破綻を促進した。
いま、許宗萬執行部が最後の望みを託しているのは「朝日国交正常化」である。02年9月の「朝日首脳会談」直後、朝鮮総連中央が行なった幹部講演資料にはこう書かれている。
「在日同胞は半世紀が過ぎるまで日本が敵対視する国の公民として差別と迫害の対象となってきたが、これからは、法的地位と生活の様々な側面において、大きな転換をもたらす」。
拉致問題は「一時的な問題」と考えた彼らの判断は、「金正日拉致謝罪」に対する日本国民の感情を甘く見すぎていた。あれから5年、状況は逆方向に動き、日本国民から孤立しただけでなく、在日朝鮮人の離脱も決定的なものにした。
もしかりに朝日国交正常化が実現したとしても、もはや在日朝鮮人が許宗萬執行部の思い通りに動くことはない。またこの体制が犯した罪ととるべき責任を明確にしないかぎり朝鮮総連の財政再建も不可能であろう。
朝鮮総連は金正日―許宗萬体制と運命を共にするのか、それとも在日同胞の側に立ち戻って組織を再生するのか。いよいよ正念場を迎えようとしている。
以上