2月13日午前9時ごろ6日にマレーシア入りしていた金正男氏(金正恩朝鮮労働党委員長の兄)がクアラルンプール国際空港で毒殺された。ベトナム旅券とインドネシア旅券(正式旅券と確認された)を持った2名の女が、空港の自動チェックインカウンターにいた金正男氏を、背後から毒液を染み込ませた布で顔を覆ったとも前から毒液をスプレーで吹き付けたとも言われている。
この二人の女のほか4名の男が犯行に加わったとみられているが、インドネシア旅券を持っていた女の交際相手とされるマレーシア人の男はすでに逮捕され、18日には4人目の容疑者として北朝鮮の旅券を持つ46歳の男が逮捕された。残り二人についてはマレーシア捜査当局が追跡を続けている。
問題はこの犯行が誰の指示によってなされかである。逮捕された女二人はベトナムとインドネシアのパシポートを持つとされているが、犯人が金正男氏と全く関係のない人物であることから様々な情報が錯そうしている。
事件の全容が解明されていない時点での断定は性急ではないのかとの指摘もあると思われるが、暗殺されたのが2012年から一貫して金正恩委員長に命を狙われてきた金正男氏であることから、北朝鮮工作機関の犯行であることは間違いない。それは兄である金正男氏が暗殺されたにも関わらず金正恩が何らの反応も示さないことからも明らかだ。
金正男暗殺が、2月16日の金正日誕生日(75歳)を前にしていたことや、ムスダンと見られるミサイルが発射(2月12日)された直後であることから、なぜ今なのかについての様々な憶測がなされている。
1、金正男暗殺はなぜいまなのか?なぜマレーシアだったのか?
この暗殺がなぜこの時期に決行されたことについては、いま様々な憶測がなされている。
主なものとしては、韓国中央日報が流した「亡命政権を樹立しようとしていたからだ」との情報だ。だが、この情報や説が事実なら、金正男氏が金正恩政権に真っ向から対決を挑もうとしたことになる。しかし金正男氏が2012年4月、弟の正恩氏に「自分と家族を助けてほしい」などと訴える書簡を送っていたことを考えるとこうした情報には違和感がある。
また「金正男氏が亡命を計画していたからだ」との説もある。亡命説については、過去に金正男氏に対する暗殺未遂があった2012年ごろ、金正男氏からではなく韓国側から「韓国に来た方が安全なのではないか」と打診され。それに対して金正男氏はそのまま外(海外)に滞在することを望むと回答したという。韓国中央日報の報道では、金正男氏が打診したこととなっているが、これは全く逆であるようだ。
こうした点を考慮するなら、今回の暗殺の根拠を、最近金正男氏が亡命、特には亡命政権樹立に向かっていたからだとするのは少々無理があると思われる。亡命政権を樹立するなら自身の保護壁であった叔母の金慶喜氏やその夫の張成沢氏が健在であった時期に行動を起こしていただろう。彼には金正恩政権と対決する意思はなかったと思われる。
こうして見ると、この時期に暗殺が実行されたのは、金正男氏が亡命政権樹立や亡命に向かっていたからではなく、北朝鮮が一貫して進めていた暗殺計画の諸条件がこの時点でそろったため、急いで実行に移したと見るのが妥当と思われる。暗殺の諸条件がマレーシアという地域で整い、そこで動線が確実に補足でき、正男氏が気を許し最も接近しやすい空港という場所が確定できたからこそ暗殺が実行されたのだろう。
ただ衆目が集まる空港での犯行については、金正恩が金正男暗殺を急いでいたためとの見方もあり、金正恩に反対すればこのように暗殺するぞという見せしめ的意味だとの見方もある。
ではなぜマレーシアなのか?
しかしここで疑問が残るのは、なぜ彼がボディガードも付けず一人でマレーシアに向かったのかということである。一貫して彼を保護していた中国が今回警護していた気配が全く感じられないことにも疑問が残る。
誰かがビジネスを持ちかけて一人でクアラルンプールに来るように仕向けたのか?もしくは金正恩氏に張り付いていた誰かが、たまたま一人で行動することを事前にキャッチして暗殺団に通報したのか?
この点について朝鮮日報韓国版は、2月17日付けで次のような興味深い情報を報道した。
北の外貨稼ぎ総責任者ハン・フンイル… 金正男暗殺のキーマン
わが国(韓国)の情報当局が 「ハン・フンイル」という名前のマレーシア駐在北朝鮮貿易商が金正男暗殺事件と密接な連関があるとして関連内容を追跡中であることが16日に明らかになった。
金正男氏は、ハン・フンイルが管理してきた秘密資金を整理するためにマレーシアへ行き、その過程でハン氏を通じて金正男氏の動線情報が北朝鮮側に漏れた可能性があるというのだ。
マレーシア内の北朝鮮事情に詳しい消息筋は 「ハン・フンイルは年が 70代中盤で30年以上マレーシアに居住しながら北朝鮮の東南アジア地域外貨稼ぎ事業を統括していた」と語り 「マレーシアにビジネスのため出入りしていた金正男とはその(ビジネス)拠点を管理し資金を支援しながらずいぶんと前から関係をもっていた」と伝えた。しかし金正恩執権以後、金正男との関係が問題になり、そのために昨年北朝鮮に呼ばれて北朝鮮入りし調査受けたという。
北朝鮮消息筋は 「金正恩が後継者として登場した2011年以降、中国で金正男氏に便宜を提供した駐在員たちを処刑するなど金正男ラインは皆除去されている」とし「しかしハン・フンイルは金日成・金正日誕生日毎に数万ドルずつ忠誠資金を納めて来たし、マレーシア高位層とも親交を深めていた古くからの大物だったために調査だけを受けてマレーシアに復帰した」と語った。ハン・フンイルの妻が金日成の副官を勤めたパルチサン出身のキム・ミョンジュンの娘である点も関係したという。
しかしそうだとしても、叔父、兄まで容赦なくとり除く金正恩が、ハン・フンイルを生かしておいたのには他に理由があるはずだという観測もある。
他の情報消息筋は「ハン・フンイルが生き残る対価として金正男との関係を整理し、さらに北朝鮮が金正男を暗殺する過程でも情報提供するなどの役割を果たした可能性がある」と話した。
消息筋によればハン・フンイルは軍事諜報要員を養成する鴨緑江大学出身で1980年代にアフリカのジンバブエに軍事教官として派遣された人物だが、退役した後マレーシアに派遣され30年以上外貨稼ぎを行い、金融事業、人力輸出、建設事業受注、武器販売、不動産事業、ゴム収入、原油収入などを通じて北朝鮮に資金を調逹してきたと知られている(朝鮮日報韓国語版2017・2・17)。
この情報が確かであれば、今回金正男の動線は北朝鮮側に完全に把握されていたことになる。この時期にマレーシアで暗殺が可能となった事情が十分に理解できる。
2、金正恩が金正男暗殺を急いだ理由
さて今回、北朝鮮が今回マレーシアの空港で一件ズサンとも思える方法で金正男を暗殺したのにはどのような背景があるのだろうか?そこには、金正恩体制の不安定さとレジームチェンジに対する金正恩の恐怖が関係している。
これまで金正恩は執権以後次々と側近の粛正を行う恐怖政治を強化して来た。それは自身の偶像化ができず、資質にも問題があり、権力基盤も不安定だからだ。特に義理の叔父である張成沢氏粛清以後における北朝鮮幹部の面従腹背は、いまや深刻な状況にまで至っている。そして恐怖政治のスパイラルが、脅迫的官僚主義を強め拝金主義と重なることによって腐敗を生み、金正恩と一般住民との間の溝をますます広げている。だからこそ昨年の末に初級党委員長大会を開いて官僚主義と腐敗の撲滅を強調し、今年の新年辞で自身の力不足に言及することで一種の「整風運動」を呼び起こそうとしたと思われる。
昨年夏に韓国に亡命した太永浩(テ・ヨンホ)前駐英北朝鮮公使など最近脱北した元北朝鮮政府関係者によると、金正恩氏の独裁的な恐怖政治に北朝鮮全体が厳しく締め付けられているが、人々は昼には金正恩万歳を叫び夜には布団をかぶって韓国ドラマを見ており、不満を持つ勢力も少しずつ増えつつあるという。
一方、韓米はこの状況を踏まえて、米韓軍事演習の中で「斬首作戦」と言われる金正恩除去作戦を強化し、レジームチェンジによる核ミサイル問題の解決に焦点を当て始めている。また中国がこの流れに同調する気配も見られる。
こうしたことから金正恩委員長の疑心暗鬼はさらに強まり、首のすげ替えで登場する可能性のある金正男除去をさらに急がせることになったと思われる。
太永浩公使は、現在の北朝鮮体制と金正恩の恐怖政治について次のように証言した。
①一見強固な金正恩体制、内部は腐り切っている
北朝鮮エリートたちは、今のような奴隷生活が今後40-50年、ひ孫の世代まで続くのではないかと心配している。金正恩体制は一見堅固なように見えるが、内側は完全に腐り切っている。幹部らは(金正恩の)気が狂ったような言動を目の当たりにしながら「太陽に近づき過ぎれば死ぬし、遠くなり過ぎれば凍え死ぬ」と考えながら日々を過ごしている。
みな昼間は金正恩万歳と叫ぶが、夜は布団をかぶって韓国映画を見ている。北朝鮮住民のこのような現状を金正恩はよく知っているため、幹部や住民の一挙手一投足を厳しく監視している。少しでもおかしな言動が見られれば、直ちに処刑する恐怖政治を行っている。金正恩政権は親子間の最も崇高な愛さえ利用し、海外駐在職員は子どものうち1人を北朝鮮に人質として取っている(朝鮮日報日本語版2016/12/28 09:54)。
②金正恩の恐怖政治は金正日を上回る
金正恩の恐怖政治は金正日を上回る。その一例として、金正日時代の大規模行事では保安要員が丁寧に住民たちの身分証をチェックしたが、金正恩政権以降は軍服姿の保安要員が機関銃を突き付けて身分証を確認する。これを私は「恐怖先行政治」と呼び、「人が持つ恐怖心をまず刺激し、絶対に反抗できないようにするものと規定している。
監視はあらゆる(領域の)末端まで及んでいる。10人もいない公館には専任の監視要員が付かないので、公使が大使の監視役をする。しかし、人がやることなので、仲間を監視して報告することを避けることもある。だから韓国ドラマを見ていることを知りながらも、お互い目をつぶっている。北朝鮮の一般住民はもちろんのこと、エリート層も日和見主義的に生活している。
だから私も『金正恩万歳』と叫ばざるを得なかった。日和見主義的に生活するしかなかったことが恥ずかしい。英国で違う階層の人に会うとほとんどが「あんな北朝鮮の体制をどうやって広報するのか」と聞いてくる。職務上、北朝鮮体制を擁護しなければならないため、非常につらい日々だった(朝鮮日報日本語版2016/12/28 )。
金日成・金正日の時は、処刑の理由が明確だったが、金正恩が幹部を処刑する理由はあいまいで荒唐無稽だ。政策的問題ではなく、金正恩の気分に抵触すると即興的に首を切る。一人を殺して万人が立ち上がれないように恐怖を与えるのだ。気に入らないからと中央党の中の一部署(行政部)を抹殺したこともある。この時、地位のある人はすべて銃殺され文書を運ぶ末端行政員の家族まで収容所に送った(朝鮮日報韓国語版 2017.01.02 03:02 )。
*このような粛・清処刑について北朝鮮脱北者の姜哲煥(カン・チョルファン)北朝鮮戦略センター代表は2月10日、張成沢氏の処刑に関連し、党の幹部約415人、傘下機関の幹部約300人、人民保安省幹部約200人が公開銃殺されたと証言した。また、処刑された幹部の中には抗日パルチザン時代からの故金日成主席の同志の一族も含まれたとした上で、「家族や親戚らが収容所に連行されるなど、張氏の処刑により少なくとも2万人が粛清された」と説明した(聯合ニュース2017/02/10 08:36)。
3、突破口を求めて核ミサイルにすべてを賭ける金正恩
金正恩委員長は、こうした窮地からの突破口を長距離核弾道ミサイルの完成と核ミサイルの多様化に求めている。
昨年の10月以降における韓国の政情不安と米国のトランプ新政権に対する様子見から自制していたミサイル実験を12日に再び始めた。2月2日からのジェームズ・マティス米国防長官の韓国、日本訪問でトランプ政権の対北朝鮮強行路線が明確となったからだ。韓国情勢については朴大統領弾劾が承認されようが棄却されようがどの道混乱状態となると読み、挑発しても影響は少ないと判断して再びミサイル実験の挑発を再開した。
北朝鮮ミサイル発射実験の再開
韓国軍合同参謀本部によると、北朝鮮は12日午前7時55分ごろに北朝鮮西岸の亀城(クソン)付近から移動式無軌道発射台からムスダンの新型と見られる中離弾道ミサイルを発射した。ミサイルは89度の角度で約500キロ飛び、日本海(東海)に落下した。通常の発射角度であれば2000Kmに達するという。韓国軍は「北朝鮮に強硬路線を取る米新政権に対する武力誇示の一環」と分析している。
前駐英北朝鮮公使太永浩公使は、金正恩が核ミサイルに執着する強い意思について、「金正恩の核兵器開発政策を放棄させられるかどうかは(北朝鮮に与える)インセンティブの質や量とは関係ない。金正恩氏が存在する限り、北朝鮮は絶対に核兵器を放棄しない。金正恩政権がまさに核兵器そのものだ(金正恩=核兵器)。1兆ドル(約120兆円)、10兆ドル(約1200兆円)を与えても、絶対に核兵器を手放さないだろう」と語った(聯合ニュース韓国語版2016/12/27 17:52)。
金正恩は、自身の権威づけも、国際的包囲網の突破も、韓国の吸収統一もすべて核弾道長距離ミサイルさえ完成させれば解決すると思いこんでいる。
「恐怖政治と核ミサイル」これが金正恩のキャラクターから来る「並進路線」であることがますます明確となってきた。
3月の合同軍事演習 韓米が米戦略兵器展開に合意
金正恩委員長の核ミサイル「オールイン路線」に対して、米国は北朝鮮のレジームチェンジ以外に北朝鮮核問題の解決はないとの見方を強めている。
そうしたことから韓国と米国は、3月に実施する合同軍事演習「キー・リゾルブ」と野外機動訓練「フォールイーグル」に米国の戦略兵器を投入することで合意した。
韓国国防部は2月14日、国会国防委員会への報告資料で、「昨年と同様に、過去最高水準の演習で韓米同盟の対北対応の決意を顕示するため、米国側と戦略資産の展開規模および公開拡大について協議している」と明らかにした。これに関し韓国軍関係者は、「米国のステルス戦闘機F22や原子力空母などを順次展開することで米国と認識が一致した。3月の韓米合同演習で米国の戦略兵器が展開されるだろう」と述べた。
米原子力空母カール・ビンソンやF22、原子力潜水艦、戦略爆撃機のB1B、B52などが出動すると予想される。
また、国防部は韓米合同軍事演習について「北の核と大量破壊兵器に対応し、報復能力を確保するための訓練を強化する。演習後半部は統合火力撃滅訓練を通じ北と国民向けにメッセージを強く打ち出す」と説明した(聯合ニュース2017/02/14 11:50)。
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金正恩は、米韓及び中国による「レジームチェンジ作戦」への恐怖から義理の叔父の張成沢氏や腹違いの兄の金正男氏を消し去った。彼らを消し去れば政権に反抗する芽は一掃され「レジームチェンジ作戦」の根もなくすことができると考えているようだ。しかしそのことによって金正恩政権の道徳性はますます地に落ちるに違いない。国内エリート層の動揺は一層拡大し世界の人権団体からの追及はますます強まるだろう。「人道の敵金正恩」の終焉はまた一歩近づいたと言えるだろう。
以上